「この子を預けて戦争には行きたくない」。2022年のロシアによる侵攻の10日前、私はウクライナ東部のドニプロで2歳の娘をもつオクサナ・コンスタンチノビチさん(38)が、涙ながらに語ったこの言葉を忘れることができない。傍らにいる娘のボグダナちゃんは「パパはお空。天使と一緒」と言って、その小さな指を空に向かって指した。(TBSテレビ 西村匡史)
オクサナさんの夫で兵士だったセルギーさん(享年34)は5年前、2014年から続いていたウクライナ東部紛争の戦闘で亡くなった。当時、オクサナさんは妊娠4か月。絶望の淵に立たされながらも、子どもの誕生を心待ちにしていた夫のために、ボグダナちゃんを出産した。
自身も兵士だったが、妊娠を機に退職したオクサナさん。ロシアに侵攻されれば軍に戻ることを考えていたが、幼い娘の身を案じると心は揺れた。「軍人としては侵攻に備えますが、母親としては平和を望んでいます」
数日後にロシア軍によって激しい爆撃を受けることになる人口100万人都市のドニプロは、日常の光景が広がっていた。公園で鉄棒にぶら下がってはしゃぐボグダナちゃんの横では、他の子どもたちが大声を上げて走りまわっている。中心街では夜のネオンが灯り、ナイトクラブも深夜まで営業していた。国内外のメディアは「侵攻が現実味を帯びてきた」と報じ、私も中継で「現地では緊張感が高まっている」と伝えたが、「そんなはずはない」と祈る思いで生活している市民も少なくなかった。
2月24日、侵攻は現実のものとなった。ドニプロも甚大な被害を受ける。2週間後、私はオクサナさんからの電話で、ボグダナちゃんとともに無事であることを知り、少し胸をなでおろした。だが、2人はドニプロの自宅に留まったまま。空襲警報が鳴るたびに、アパートの地下に避難しているという。「どこにも逃げたくないんです。私たちは必ず勝つし、自分の家も守る。必要とあれば軍に戻って共に戦います」
あの侵攻からまもなく2年、オクサナさん母娘は今、何をしているのか。2024年2月20日、私は音信が途絶えていたオクサナさんとビデオ通話で話をすることができた。ニット帽を被り、軍服姿で現れた彼女は、やはりウクライナ軍に戻っていた。娘を両親がいるウクライナ中部の町に避難させた後、自身は軍務に復帰し、新兵を訓練する施設の教官をしているという。 「最前線の兵士として志願したかったのですが、妹の夫が前線で亡くなったため母に猛反対されました。娘を預かってもらう条件として、私が前線に行かないことを約束させられたのです」
戦況は日増しに悪化しているという。「兵士、武器、弾薬の全てが不足しています。アメリカでトランプが大統領になったら、さらに苦しくなるでしょう。特に深刻なのは兵士不足です。比率でいうと、ウクライナ兵1人に対し、ロシア兵は50人くらいいる印象でしょうか。1か月間訓練した新兵を戦地に送り出すのは辛いです。帰還できない人がいることを、私は知っているからです」
オクサナさんは当初、娘と毎日、ビデオ通話をしていた。だが、ボグダナちゃんが興奮して眠れなくなってしまうため、あえて頻度を抑えるようにしたという。「娘の泣き顔を見ると、私も泣きたくなりますが我慢しています。私が涙を見せると、娘はさらに泣いてしまうからです。『愛しているよ。大丈夫だよ』という言葉をかけて、なるべく落ち着かせるようにしています」
戦況について語る厳しい兵士の顔が、母親の表情に変わった。
「『戦争が終わったら、ママとドニプロに戻って一緒に暮らそうね。スーツケースに荷物をいっぱい詰めて、海で泳いでゆっくりしようね』と説明しています。娘はおしゃれ好きなので『どんな水着にしょうか、どんな口紅をつけようか』と想像を膨らませ、胸を躍らせています。私の一番の夢は戦争が一日も早く終わることです。全ての子どもに、父親も母親もいてほしいからです。子どもたちが安心して生活できるようになってほしいのです」
娘と離れ離れになってから1年10か月。オクサナさんの頬には涙が伝っていた。
「戦争はいつの時代も、女性や子どもといった弱い立場の人たちに、大きな犠牲をもたらす」
オクサナさん母娘とともに、私が出会った1人の女性から、それを痛感させられることになる。ユリア・アデゥリシェンコさん(20)。1年前に取材した彼女が、その後も過酷な運命に翻弄されていく現実に、私は何度も言葉を失った。「なぜ1人の女性の身に、これほどの試練が続くのだろうか」
私が初めてユリアさんに会ったのは2023年2月。サバイバーズ・ギルト(生き残った者が感じる罪悪感)に苦しむ女性が、ウクライナの隣国モルドバに避難していることを知って訪ねたのだ。初対面では少し笑顔を見せて挨拶してくれたユリアさんだが、物憂げな眼差しをしていた。
ユリアさんはその9年前の2014年、ウクライナ東部ドンバス地方で起きた親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘の際、目の前で両親を連れ去られた。ドアの鍵を開けて親ロシア派の兵士を家に上げてしまった当時11歳の彼女は、その後、「私のせいだ」と自分を責め続けて生きてきた。うつ状態になり、自らの顔を血が出るほど引っ搔くなどの自傷行為まで繰り返していたという。
子どもに自責の念まで植えつけてしまう戦争の罪深さ。私はユリアさんへの取材を通じて、それを痛感させられた。
そんなユリアさんを里子として引き取ったリディア・リアシェンコさんは(43)、並外れた包容力をもち、慈愛に満ちた女性である。精神科医で、障害児や心の傷を抱えた子どもたちを専門に教えていた経験もあり、傷ついたユリアさんを再起させようと全力を尽くした。2022年2月のロシアによる侵攻でモルドバへの避難を余儀なくされながらも、前線で兵士として戦っている婚約者と結婚したいと話すユリアさんを、戦火のウクライナに一時帰国させてくれたのもリディアさんだった。
残酷な運命に翻弄されるユリアさんだが、傍らにいるリディアさんら里親家族の存在に、取材している私までもが救われる思いがした。
1年前の2023年2月、妊娠していたユリアさんは、何度かお腹をさすってその命の愛おしさを噛みしめていた。ユリアさんにとって、ロシア軍との最前線にいる夫のウラディスラフさんとビデオ電話で話すことが生存確認の方法だ。普段は物憂げな表情を浮かべることが多い彼女だが、夫と電話が通じたとたん、私の前では見せたことのない表情に変わり、顔色が赤身を帯びる。見ていてこちらが気恥ずかしくなってしまいそうな新妻の顔だ。
「バーン」。しかし、一発の着弾音がその雰囲気を一変させる。夫が「すぐ近くだ。じゃあ、またあとでね」と慌てて電話を切った後、ユリアさんの表情がみるみる曇っていった。無意識なのか、その手はお腹に当てていた。夫の安否をただ願うばかりでしかない、ユリアさんの心境を想うと、胸がつまる。私はあらためてウラディスラフさんが、最前線で死と常に隣り合わせにいる現実を思い知らされた。それを待つ妻の心境は、いかばかりか。
私はユリアさん一家を3日間にわたって取材した後、家を辞した。「元気な赤ちゃんを産んで、幸せな家庭を築くことを心から祈っています」。そう言った私に対し、ユリアさんは「ありがとう」と、笑顔で見送ってくれた。
それから1年近くが経った2024年1月。リディアさんからユリアさんが流産していたことを聞かされ、私は思わず絶句した。モルドバの避難先の近くには検診を受ける施設がなく、ユリアさんは首都キシナウの病院にバスで移動したが、長時間、満員の車内で立って移動したため、気を失って流産したのだ。さらに、数か月後にはウラディスラフさんが爆撃を受けて入院し、出血多量で一時、命が危ない状況にあったという。神はなぜ1人の女性にばかり、過酷な運命を背負わせるのだろうか。
それでも、ユリアさんはビデオ電話で私の前に現れ、元気そうな姿を見せてくれた。このわずか1年の間にも、流産や夫が爆撃を受けて入院するという、さらなる悲運に見舞われたが、彼女は「立ち上がって進む道しかない」と前を向こうとしている。
強くなったな、ユリアさん。私は、そう思わざるを得なかった。その傍らにはリディアさんら家族の変わらぬ温かい眼差しがあった。
「世の中にはこんなにも美しい人たち、美しい家族がいるのか」
一家を取材して、私は何度もそう思わされた。愚かな戦争を起こすのは人間だ。だが、戦災で傷ついた人を癒すことができるのもまた人間である。戦争を一日も早く終わらせる努力を尽くすとともに、私たち一人ひとりがウクライナ現在も起きていることに目を背けず、息の長い支援を続けることが必要だ。
TBSテレビ「報道特集」記者。2003年入社以来「いのち」がテーマ。ロンドン特派員ではウクライナ侵攻や安楽死を取材。著書に「悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事故の30年」(講談社)、映画監督として「"死刑囚"に会い続ける男」などを制作。
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