「僕たちのお父さんも兄弟もみんな...会いたがっていました」こみあげてくる涙をおさえきれない男性。80年もの間、存在も知らなかった"おばあ"を前に、絞り出すように言葉を紡ぐ。戦争によって引き裂かれ、80年の時を超えてフィリピンの離島で劇的な対面を果たした1つの家族。太平洋戦争後の混乱期にフィリピンに取り残された「残留日本人2世」の多くは、父親が日本人であるにも関わらず、無国籍として生きてきた。「日本人として認めてほしい」と願い続ける残留2世の思いとはー。
首都マニラからプロペラ機とボートを乗り継ぎ5時間。モリネ・エスペランサさん(87)、リディアさん(85)姉妹は、電気も水道も通っていない、フィリピン"最後の秘境"と呼ばれるリナパカン島で暮らしていた。2人は太平洋戦争中に日本人の父親と生き別れたフィリピン残留日本人2世だ。
妹 モリネ・リディアさん(85)
「私は、モリネという名字を使いませんでした。親戚が名乗らせてくれなかった。もし日本人の子どもだということが村の誰かに知られたら殺されるから」
戦争中に父親と生き別れたモリネ姉妹だが、戦後も苦難の日々が待ち受けていた。(※父はフィリピン沖で戦死記録)
妹 モリネ・リディアさん(85)
「私の父親が日本人だということは、母親が6、7歳の時に教えてくれた」
戦前のフィリピンでは、麻の栽培が盛んで、最盛期には約3万人の日本人が移住、現地の女性と結婚し家庭を持つ人も多くいた。
しかし、日本軍がアメリカ統治下のフィリピンに侵攻。現地で暮らす日本人の移住者らも軍に招集され、その結果、移住者の家族などもフィリピン人からの憎悪の対象になったという。
戦況が悪化すると、移住者らは住む家を追われた。逃げ込んだ先はジャングル。既に日本に帰国するための手段は残されていなかった。空からは米軍の爆撃機、地上からはフィリピン人ゲリラに...逃げ場がなくなり、殺害された日本人やその家族も多くいたという。
そして、日本の敗戦後も、フィリピン国内では反日感情が強く残っていたため、残留2世は日本人の子どもであることを隠して生きるしかなかった。
妹 モリネ・リディアさん(85)
「隠していたが、小学校の同級生らも私が日本人の子どもだということは気づいていた。私の目が細くて小さいこと、『ハポン・ハポン』(現地の言葉で、『日本』の意味)と言ってからかわれ、イジメられた」
母親の親戚を頼りに、パラワン島やその周辺の島で隠れるように生活する日々。母親は、姉妹らを育てるために季節ごとに島の農場を渡り歩き、出稼ぎに出たという。姉のエスペランサさんは、小学校しか卒業できず、母と一緒に出稼ぎに出るなどして、家計を支えた。
妹 モリネ・リディアさん(85)
「家は貧しくて、私は小学校には5年生までしか通うことはできなかった。父がいないことは辛いことだった。結婚したのは10代の時。他に選択肢はなかった。貧しくて、着る服も数枚しか持っていなかった」
さらに、もう一つの苦難がモリネさんら2世には待ち受けていた。"無国籍"という問題だ。
戦前の国籍法では、「子どもには父親の国籍が与えられる」と定められていた。しかし、父親が戦死や強制送還されるなどしたうえ、戦火で親子関係を証明する書類などが焼失した結果、モリネ姉妹など多くの残留2世は無国籍状態となってしまった。公式に身分を証明する書類もなく、選択できる職業なども制限されることになり、多くの2世が貧困の中で戦後を過ごすことになった。
「日本人として認めてほしい」と願い、必死に生き抜いてきた姉妹。
人生も終盤に差しかかった10年ほど前、人づてに「日本のNPO法人が日本国籍回復の支援をしている」と聞きつけた。父親に関する手がかりが日本などに残されていないか、NPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)に調査を依頼した。
妹 モリネ・リディアさん(85) ※2023年取材
Q「お父さんの名前は?」
A「カマタ・モリネ」
Q「出身は?」
A「オキナワ」
「父は漁師をしていた」
「『顔の一部しか見えないくらいヒゲが濃かった』と母は話していた」
限られた情報をもとに調査を進めると、戦前、沖縄の「盛根蒲太(もりね・かまた)」という男性がフィリピンに渡ったパスポートの記録が見つかった。
更に、沖縄の県立図書館のデータベースを調べると、「盛根蒲太」さんが弟と一緒にフィリピンに渡った記録も残されていた。目的の欄には「漁業のため再渡航」と記載、リディアさんの証言と一致した。
2024年9月、こうした証拠などをもとに、姉妹は「盛根蒲太」の娘として日本の裁判所に認められ、日本国籍を回復した。調査開始から10年の歳月が経っていた。
5月末、「日本の親族に会いたい」という姉妹の夢をかなえるため、沖縄から親族がフィリピンを訪れた。姉妹の父親・蒲太さんの弟のひ孫、盛根康彦さん(40)と、別の弟の孫、直昭さん(49)の2人は、姉妹と対面が予定された前日、正直な胸の内を明かした。
盛根康彦さん(40)
「沖縄の親族を代表してフィリピンまできた。ここまで生きてくれてありがとう、という言葉を伝えたい。でも、今まで見つけてあげられなくてごめんなさい、という気持ちもある。戦争が理由だったとしてもこれまで辛い思いをさせていたのだから...」
康彦さんらを乗せた船が、姉妹の住むリナパカン島の小さな港に到着すると、多くの島民が出迎えた。ほとんどがエスペランサさん、リディアさんの子孫だという。
そして、迎えた対面の時―。
盛根康彦さん(40)
「はじめまして。あなたたちの日本の家族です。僕たちのお父さんも兄弟もみんな...会いたがっていました」
こみあげてくる涙を抑えきれない康彦さん。その手は、姉・エスペランサさんの背中にそっと添えられていた。康彦さんらを見つめる姉妹の優しい目にも涙が光っていた。
康彦さんは日本から持ってきた1枚の写真を2人に手渡した。セピア色の写真に写っていたのは姉妹の父・蒲太さん。手渡された写真をじっと見つめる姉妹。そして、その顔を愛おしそうに撫で、そっと額にキスをした。
妹 モリネ・リディアさん(85)
「父親の顔はほとんど覚えていないけど、ずっと心の中にいた。やっと会えたことがうれしい。日本の親族が訪ねてきてくれたことで、長年の夢が叶った」
「(康彦さんは)ヒゲが濃い。私の父親も『頬が見えないくらいヒゲが濃かった』と聞いていた。同じ血が流れているということ」
訪れた別れの時。足腰が弱くなった姉妹も子どもたちに支えられながら港まで見送りにやってきた。
盛根康彦さん(40)
「体に気を付けて、ずっと元気でいてください。お願いです。元気でいてください」
何度も何度も同じ言葉をかけ続ける。「これが最後になるかもしれない」。その場にいた全員がいつまでも別れを惜しんだ。
そして、盛根さんたちを乗せたボートがゆっくりと島を離れると、「サラマッポー」(タガログ語で「ありがとう」)と大きな声が響いた。少しずつ小さくなっていく島。波止場にはいつまでも手を振り続ける姉妹の姿があった。
盛根康彦さん(40)
「会いに来てよかった。会うまでは、正直色々な感情があった、どう接していいんだろうと。でも、2人の顔を見たら『あーここまで生きていてくれてありがとう』という思いが湧いてきて、あとは自然に時間が流れていった。盛根家として2人を迎え入れることができた大切な時間だった。」
戦後80年の今年、国籍回復を支援するNPO法人は「ラストチャンス」として新たな試みをする。今もフィリピンに残り、日本国籍の回復を希望する残留2世49人のうち、20人以上から了解を得て、生き別れた父親に関する情報をSNSなどで公開することを決めた。
日本で暮らす親族からの新たな情報提供に最後の望みをかける。名前、出身地、身体的特徴などを公開するが、過去にはフィリピンとの手紙のやりとりが日本の親族側に残っていて、国籍回復に繋がったケースもあったという。残留2世の平均年齢は80歳を超え、残された時間はもう多くない。
松本健吾
テレビ朝日報道局3年にわたり、フィリピン残留日本人2世の無国籍問題を取材してきたが、取材の過程で両親の結婚式の写真や家系図が見つかり、国籍回復に繋がったケースもあった。一方で、カンバ・ロサリナさん(94)は、洗礼証明書には父は日本人、名は「カンバ・リタ」と記載、米軍の名簿には「神庭利太」という人物の名前が確認されたが、父子関係の証明には証拠が足りないとして申請が却下された。「神庭」姓は山陰地方に多いという。モリネさんのケースのように日本の親族が見つかれば、新たな証拠が出てくる可能性も残されている。一人でも多くの人に、こうした情報が届くことを願っている。
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