半世紀以上語り続ける原動力は、核兵器廃絶への願いです。
「もし布団をかぶっていなければ死んでいた」。男性は80年前、"地獄"をみた。外に出ると、顔はめちゃめちゃ、体の皮膚がだらんとぶら下がった人がうろうろしていた。自身もやけどの痛みと原爆症で「死にたい」と思った。左の手足には今でも大きな傷痕が残る。そんな男性のもとを、高校時代を長崎で過ごした俳優・水上恒司さんが訪ねた。初めて演じた役も代表作も戦時中を描いた作品だ。「若者である僕たちがこれから伝えていくべきだ」。男性との対話を通して、水上さんは決意を新たにする。
1945年8月9日。18歳だった築城昭平さんは、勤労動員で長崎市内の三菱兵器住吉トンネル工場で魚雷部品を製造していた。夜勤を終え、爆心地から1.8キロの師範学校の寮で寝ていると、「ガガー」という大きな音で起こされ、気付いたときには爆風で吹き飛ばされて部屋の壁に打ちつけられていた。
「家が倒れたような音だった。隣の部屋に爆弾が落ちたと思った。隣に寝ていた友達が立ち上がったので見ると、(全身)真っ赤になっていた。びっくりして『おまえ、真っ赤になってるぞ』と言ったら、なんのことはない、私も"赤鬼"のように真っ赤になっていた。ガラスの破片が当たったんですね」
8月にもかかわらず頭まで布団をかぶって寝ていたため、原爆の熱線で皮膚が焼けたのは布団から出ていた左腕と左足だけだった。外に出ると、寮の周辺は悲惨そのものだった。
「近所の人が防空壕の前でうろうろしていた。その人たちはめちゃめちゃにやけどしていた。顔もめちゃめちゃ、体も皮膚がだらーんと。地獄。その瞬間、この世の中が終わるんじゃないかと思った」
左の腕と足は大やけどを負った上に、ガラス片が刺さっていた。もし布団をかぶっていなければ、けがはこの程度では収まらなかっただろう。直後は痛みを感じなかったが、自宅に戻って治療するときには痛みがひどく「死にたい」と思ったほどだ。今も左腕にはケロイドが残っている。
俳優・水上恒司さん(25)は、高校時代を長崎で過ごした。東京を拠点に活動をしているが、友人や仲間との会話の中で「1945年8月9日」を知らない人が多いことに危機感を覚えた。一方で、自分も戦時中を生きた人のことを少しでもわかっているのか。そんな思いから、長崎で被爆した築城さんのもとを訪ねた。
2人は原爆落下中心地を訪れ手を合わせた。
(水上さん)何を思いながら手を合わせたんですか?
(築城さん)一緒に逃げた仲間が一番印象に残っていて、その仲間が次々と死んでいった、それを思いながら...。
被爆した直後は周辺をさまよった。当時の長与村にできた療養所にいたところ、兄と父が自分を探しにきてくれ、リアカーに乗せられ自宅に連れられた。自宅で3カ月ほど療養を続けたが、その間に髪の毛が抜けたり、下痢が続いたり、高熱にうなされる日々が続いた。痛みがひどく「死にたい」とさえ思った。原爆の「後障害」だった。
長崎の3日前には広島に原爆が投下された。「新型爆弾」とは聞いていたが、普通じゃないものがあるんだな、と思って記憶にもなかった。「原爆」というのを知ったのは、アメリカ軍がバラまいたビラを見せられた時だった。
終戦から2年後、築城さんは夢だった中学校の数学教師になった。
「当時は生きるのに大変だった。体験を伝えなければという気持ちはあんまりなかったんです。それに原爆の話をしちゃいけないと校長や教育委員会に言われていた。生徒たちも被爆者なので知っていますしね。生徒と休み時間に被爆したときの話をすることはありました」
ところが、教師になって20年ほど経ったころ「だんだん様子がおかしくなっている」と感じるようになった。
「原爆のことを知らない生徒が出てきだしてきて...これは話をしないと。あの悲惨な様子が消えてしまう、という気持ちに少しずつなってきた」
1969年に広島で「被爆教師の会」を結成したという話を聞き、翌年、仲間と「長崎県原爆被爆教師の会」を結成した。しかし"平和教育"をめぐって教育委員会や管理職などと、現場の教師の方針には大きな隔たりがあった。1977年には会が編集した「原爆読本」150冊が撤去されるという事態にまで発展している。学校で原爆について話す築城さんにはやめるよう"圧力"がかかった。
築城さんは現在、長崎原爆の体験を語る29人の語り部のなかで最高齢の97歳。おもに修学旅行に訪れた学生への講話を続けてきた。その数は1200回を超える。10年前にはノーベル平和賞の授賞式に被爆者として初めて招かれ、ノルウェー首相に自らの体験を語った。
「被爆者が英語で外国人に話をすることによって、もっともっと世界に広がっていくんじゃないかということを考えるようになった。90歳になってから英語の勉強をして、英語で外国人にも英語で話をする。下手くその英語かもしれないけれども、聞いた人は感激してくれます」
本やCDを使った勉強は日課だ。勉強は楽しく「1日30時間あってほしい」と話すほど。多くの人に伝えたいという思いはこれからも変わらない。
2024年には、被爆者でつくる唯一の全国組織である日本被団協がノーベル平和賞を受賞した。国内外で証言を続けたことが、核兵器を使ってはならないという「核のタブー」の確立につながったと評価された。それでも、1945年8月9日11時2分に何があったのかを答えられる人は多くない。
俳優・水上恒司さんも、戦争を知らない人が増えていることを肌で感じている。出身は福岡だが、広島に親戚がおり、高校時代を長崎で過ごした。人生で初めて演じたのも、日本アカデミー賞で優秀主演男優賞を受賞したのも特攻隊員の役だった。長崎原爆の舞台に参加したこともある。
「何かと縁を感じる土地が広島・長崎。小学校の修学旅行、高校の平和学習、そして演劇部で長崎原爆をテーマにした作品を始めた時に、爆心地を訪れた。修学旅行では爆心地や原爆資料館などに行って平和学習をした。当時、被爆者から当時の話を聞いたが、明確にどんな話をしていたのかは、はっきりと覚えていない」
2つの被爆地に縁を感じながらも、実はきちんと知らなかった、実相を理解できていなかったと感じていた。
当時の人がどのように戦争という現実に向き合い、日々過ごしていたのかは想像することしかできない。被爆者がどういう思いであの日を過ごしてきたのか、そのあと生きてきたのか。「事実を知ることが大事だった」と悔しい気持ちになった。
「自分にできることはあるのか」。水上さんの問いに、築城さんは「ぜひ戦争や核兵器に関する作品に積極的に出演してほしい」と答えた。
「そうするとより(核兵器廃絶の意味が)広がってくると思う。私も話すごとに、もっともっと話さないといけないと考えるようになってきた。話の最後は『戦争がない、核兵器がない世界を作らないといけないので、今日の話をしっかりと受け止めてそういう人間になってください』と言っている。原爆、核兵器が世界にある以上、人類は本当の平和とは言えない。世界中の人に(原爆の恐ろしさ)について知ってもらえれば、(核の問題は)止むと思う。私も死ぬまで話を続けたい」
被爆者の平均年齢は85歳を超え、その体験を直接聞く機会はこれからますます少なくなっていく。彼らの言葉を未来に残していく、思いをつなげていくバトンを受け取ったと水上さんは感じた。
「先人のみなさんがどういう思いであの日を過ごしていたのか、そしてその後生きてきたかっていう事実を知ることが大事だなと思いました。そして、戦争の残酷さを知っている築城さんの世代の方々に怒られないように、それぞれが次世代に繋いでいくことが大事。もっと言うと『おまえらがそういうふうにいてくれて安心する』って言ってもらえるような生き方をしていかないといけないと思いました」
若い世代にどれだけ響くかわからない。だが、自分にできることを諦めずに生きている限り演技を通して平和を訴えていきたい。被爆者と初めて直接対話した水上さんは思いを強くした。
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