Q&Aと用語で知る戦争

戦争に関する様々な事象や出来事、用語などに対して馴染みのない人が増えています。そうした方々の疑問にお応えするため、戦争に関する解説や用語説明を掲載しています。

Q&A

戦争や空襲にまつわる疑問にお答えします

  •  本土東京から1250キロ南にある小笠原諸島の硫黄島は、戦前は1000人あまりの住民がいて、サトウキビやコカ栽培、漁業で生計を立てていました。しかし、1944年サイパンやテニアンなどマリアナ諸島がアメリカ軍の手に落ちると小笠原諸島への米軍侵攻が予想され、2万を越す陸海軍の守備部隊が硫黄島に配置されました。そのため硫黄島をはじめ小笠原諸島の住民は本土などへ強制的に疎開させられました。

     1945年2月に米軍が硫黄島に侵攻してきました。東西8キロ南北4キロの硫黄島をめぐって血で血を洗う戦闘が一月余り続き、徴用された100人あまりの硫黄島住民の男性軍属を含む日本軍はほぼ全滅、米軍側も日本軍を上回る死傷者を出しました。

     その後硫黄島を含む小笠原諸島は1968年に日本に施政権が返還されるまで米軍統治が続きました。その中で米軍の拠点となった硫黄島は返還後も住民の帰還が許されませんでした。島全体が、日米共用の基地の敷地になったからです。硫黄島出身の方々は少なくなりましたが、今も島への帰還を望む人がいます。しかし、決まった期間での墓参や遺骨収集の時以外には島に入ることができません。また、日本軍や軍属の遺骨については半数以上の1万1000人以上が見つかっておらず、遺骨の探索も時間の経過とともに困難になっています。

  •  太平洋戦争は、日本陸軍による、英領マレー半島上陸と海軍機動部隊によるアメリカ・ハワイの真珠湾への奇襲攻撃で幕を開けました。

     1940年頃から日中戦争や日独伊三国同盟をめぐって日米の対立が深まる中、日米交渉と並行して軍部は開戦準備を始めました。海軍では、連合艦隊の山本五十六司令長官が開戦直後に真珠湾を拠点とする米太平洋艦隊に奇襲攻撃で痛撃を与える作戦を打ち出しました。山本長官は、日本を遥かに上回るアメリカの工業生産力を熟知しており、戦争が長期化すれば到底勝ち目がないことを知っていました。そのため日米戦に反対していました。

     しかし、開戦が避けられないならアメリカ海軍にできる早く大きな被害を与えて早期に講和に持ち込むという筋書きを山本長官は考えたのです。海軍軍令部は、この作戦では失敗すれば日本海軍にとって虎の子の空母を何隻も(山本長官の作戦案では日本が保有する空母10隻のうち6隻を動員)失いかねない、大博打であると強く反対しました。日本からハワイまで海軍の大部隊が見つかることなくハワイ沖にたどりつけるのかが最大の問題でした。見つかって反撃を受け大きな損失を出せば、一気に戦争の継続が難しくなるからです。しかし、山本長官は、この作戦を認めてもらえないのなら長官を辞任するとまで海軍の首脳に訴えました。そのため軍令部総長など首脳部はこの作戦を受け入れたのです。

     真珠湾は、水深が極端に浅いため、奇襲攻撃に成功しても主要な武器である魚雷攻撃が失敗することが懸念されていました。

     連合艦隊は、鹿児島の錦江湾などを真珠湾に見立てて魚雷投下の猛訓練を実施、さらに海軍は水深が浅い真珠湾でも海底に潜ってしまわないように改良を加えた最新の魚雷の開発を行い、1941年11月26日、真珠湾に向けて北海道千島の単冠湾を密かに出ました。

     12月8日(日本時間)未明、見つかることなくハワイ近海に接近して6隻の空母から二波にわたって爆撃機、雷撃機、戦闘機を発進させて真珠湾上空に侵入、米軍艦船、飛行場を襲ったのです。この奇襲攻撃で湾内にいた戦艦8隻のうち4隻が撃沈された上に、200機以上の航空機が破壊されました。米軍側の戦死者は2300人に上りました。日本側の損失は29機の航空機と5隻の小型潜水艦だけでした。山本長官の賭けは成功したのです。

     しかし、宣戦布告のないままの奇襲にアメリカ側は、「騙し討ち」だとして即座に日本に宣戦を布告、さらに欧州戦線にも参戦をすることを決めて第二次世界大戦は一気に拡大することになりました。日本は自分たちが始めた戦争を一体どこで止めるのかという戦略がなく、泥沼化して行ったのです。アメリカの残存した海軍力(特に空母)を壊滅させることを狙いにした翌1942年6月のミッドウェー海戦では、山本長官は返り討ちにあい真珠湾を攻撃した空母の4隻を失ったのです。ここから日本は敗勢に傾くのです。さらにその1年後、山本長官は航空機での移動中に、情報を察知した米軍に攻撃されて戦死しました。

記事内用語一覧

記事中の聞きなれない用語について説明します

  • (1942年8月〜43年2月)

     日本海軍は、1942年8月ソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場を完成させました。アメリカとオーストラリア間の交通網と補給網を遮断するためでした。しかし、完成と同時に米海兵隊が上陸して飛行場を奪いました。日本軍は飛行場を奪還しようと陸軍部隊を派遣し、半年におよぶガダルカナルの戦いが始まりました。この戦いを巡っては、日本軍は遠く離れたラバウルからの航空攻撃を続けたために、数多くの熟練搭乗員を失いました。また、兵器や物資輸送のための貨物船や護衛の艦船が次々に沈められたほか、幾度もの海戦がガダルカナル島周辺で行われて、日本海軍も米豪軍も多くの艦艇を失いました。

     さらに、日本軍は物資の輸送がうまくいかなかったためガダルカナルの将兵は飢えに苦しみました。1943年2月に日本軍は島を撤退しましたが、送られた3万人の将兵のうち2万人が戦病死したのです。

  • (1943年9月)

     太平洋戦争開戦から1年10カ月、ミッドウェー海戦とガダルカナルの戦いでの敗北、ニューギニア東部での苦戦などで日本は劣勢に立たされました。日本は、1943年9月30日閣議と御前会議で「今後採るべき戦争指導の大綱」を決定し、北海道千島からマリアナ諸島、ニューギニア西部を結ぶ線を「絶対国防圏」として、本土を防衛して戦争遂行を継続するのに守らなければならない要域を確認しました。しかし、1年もたたないうちにマリアナ諸島を失い、その後は日本本土が空襲にさらされるようになるのです。

  • (1945年7月)

     1945年5月ドイツが降伏すると、日本は世界中を敵に回して単独で戦う状態となりました。沖縄が陥落した後の7月、米、英、ソ連の指導者がドイツのポツダムに集まり会談を行い、日本に無条件降伏を促す「ポツダム宣言」(署名は米、英、中国)を7月26日に発表しました。日本政府は、鈴木貫太郎首相が「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」と発表して、これがメディアを通して世界に伝えられたのです。その10日あまりのちの8月6日広島に、8月9日には長崎に原爆が投下され、さらにソ連が対日参戦、日本は8月14日の御前会議でポツダム宣言を受諾したのでした。

  • (1944年6月)

     1944年6月、太平洋の島々を攻略してきた米軍は、日本の委任統治領であるサイパンやテニアン、グアムのあるマリアナ諸島に迫ってきました。絶対国防圏としてマリアナ諸島を失うことのできない日本は、守備部隊を配置すると同時に、米軍の上陸部隊と機動部隊を迎え撃とうとして、マリアナ沖海戦がおきました。日本海軍はすでに熟練の搭乗員を失っていた上に、米軍の最新のレーダーと航空機を感知して爆発するVT信管などの新兵器により、戦闘に参加した空母艦載機400機のほとんどを失いました。これで、日本海軍は空母機動部隊の大部分を失い、戦争を継続する力をなくしました。また、米軍上陸によってマリアナ諸島の守備部隊も全滅、多くの日本人住民も犠牲になりました。

  • 爆破された線路を調べる「リットン調査団」
    爆破された線路を調べる「リットン調査団」

     1931年9月、日本の関東軍が、遼寧省奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを当時の張学良軍の仕業として大規模な軍事行動を展開、翌年2月までに満州のほぼ全土を占領しました。関東軍は、最後の清朝皇帝の「愛新覚羅溥儀」を執政(国家元首)に据えて傀儡国家である「満洲国」を成立させました。国際社会はこれに反発して、国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とする「リットン調査団」を満州に派遣しました。その結果1933年2月、リットン報告を元に国際連盟では満洲国存続を認めない勧告案を可決しました。翌月、日本は国際連盟脱退を表明し国際的な孤立を深めていったのです。

  • (1942年6月)

     太平洋戦争開戦から半年の6月上旬、日本軍は、ハワイ諸島の北西にあるミッドウェー島を攻略し、同時に米軍の空母機動部隊を撃滅して太平洋における支配力を確固たるものにしようとしました。しかし、日本軍は、偵察力と情報収集に勝った米軍の先制攻撃で、参加した空母4隻とその艦載機全てを失いました。太平洋における日本の海軍の勢力は大きく低下、連戦連勝の日本は早くも敗勢に傾いていったのです。

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