過ちを繰り返さないためにまずは知ることから始めませんか。
彼はそれを「毒針」と表現する。自分の身体の中でその毒がいつまわりだし、命をむしばむのか...79 年もの間おびえてきた。「それ」とは79年前、広島で原爆が落ちた後降った「黒い雨」のことだ。迫田さんは言う。「突然あたりが暗くなり、勢いよくだーっと降り出したんです」。とても暑かったあの日、7歳だった迫田勲さんは、その雨を喜んで浴びた。まさかそれが放射性物質を含む恐ろしいものだとは知らずに...。自分のその体験と「毒針」の恐怖について、彼は去年から体験を語り始めた。2度と誰にもそれを味わわせないために。
1945年8月6日、当時7歳だった迫田勲さん(86)は、爆心地から19キロ離れた広島市安佐北区の安佐町小河内地区の自宅近くの山中にいた。国民学校1年生だった迫田さんは同級生たちと、兵隊の服や帽子の材料になる「むしょう」という野草を収集していたと言う。戦況が悪くなり、物が無くなっていた時代だった。7歳の小さな子供も国のために奉仕していた。
午前8時15分。静かな山の中にいた迫田さんは、広島の中心部方面が、ピカッと光ったのを感じた。
「一瞬でした。それからしばらくして、どんっという鈍い音がしたんです。その後、その方向から爆風が起き、前の山が大きく揺れました。まるで台風のようでした」
真夏で、葉っぱがたくさん茂っている。それが裏返しになって白くなり、山が揺れているように感じたのだと振り返る。
「近所のおじさんが被っていた麦わら帽子がぴゅーと飛び、様々な物が飛んできました。紙や衣類まで飛んできて、しばらくの間、枝に引っかかっていました」
それぐらいものすごい爆風だった。空を見ていた近所のおばさんが、太陽が隠れた様子を見て、「日輪さんが涙を出しているんじゃないか、日輪さんが病気になったんじゃないか...大変なことになった」と言いだしたのが印象に残っている。これまでない出来事が起こっていた。しかし何が起きたのかはまったく分からなかった。
山の中で何も情報がない。迫田さんたちはしばらくして、作業に戻った。集落の子供たち8人で、集めた野草の葉っぱを取り、同じ長さに切って持っていくと、近所のおじさんが蒸してくれる。その窯の周りを子供たちが囲んでいたそのときだった。
「だーっと黒い雨が降ってきたんです。さらっとした雨ではなく、大粒の黒い雨でした」
急に当たりが真っ黒になり、土砂降りの雨が降ってきたのだ。いつもとは違う雨だったが、真夏に、火を囲んで汗をかいていた子供たちは喜んだ。当時、まったく危険なものだとは思いもしなかった。
「むしろ、いい雨だと思っていた」と迫田さんは振り返る。両手を挙げ、空を見上げ、雨を歓迎した。8人全員半袖の白い服を着ていたが、気が付けば黒い斑点が付いていた。こうして「毒針」は、その場にいた全員の身体に侵入していった。それだけではない。迫田さんは、おなかが空くと畑に行って、黒い雨の染み込んだトマトやキュウリなどを、おやつ代わりにそのままかじっていた。毎日毎日それは続いたのだ。
「皮膚から口から、鼻から全身にそれが入ってきました。スマートフォンもテレビもない時代です。何も分からなかったんです」
大変なことが起きたと知ったのは、次の日の夕方になってからだった。迫田さんが住む村にも、大勢の負傷者がトラックで運ばれてきたのだ。母を含む地区の婦人会のメンバーが救護に駆け付け、広島に新型の大きな爆弾が落ちたということを知った。今までに体験したこともない大事が起きたのだということが子供ながらに理解できた。近くの中学校に約150人が収容され、村の人たちが治療にあたっていたが、1カ月間で約100人が次々と亡くなり、火葬された。そこには、のちに慰霊碑が建てられた。
幸い、幼い迫田さんの身体に異変はなかった。就職し、東京や名古屋で暮らす中で、自分が体験したことを意識することはそこまでなかった。高校時代盲腸で入院したぐらいで、元気なのが自慢だった。
しかし、議員秘書をしていた60代のとき、突然苦しくなり緊急入院した。通常60の脈拍が120まで上がった。汗がだらだら流れ、喉が渇き、手が震える。気が付けば体重は10kg減っていた。診断名は「甲状腺機能障害」。入院は1カ月以上に及んだ。黒い雨との因果関係は、今の医学では分からないと言われた。退院しても、薬を飲み続けなければ、いつ症状が出るか分からない生活になった。主治医には「終生治療を要す」と告げられた。
迫田さんはこのときから、体の中の「毒針」を意識するようになった。気が付けば、一緒に黒い雨を浴びた仲間8人のうち2人しか生きていない。3人ががんで亡くなっていた。因果関係はあるのか、ないのか。ひたひたと得体の知れない怖さを感じた。この時から過去と向きあい、原爆や黒い雨について深く意識するようになった。
そんな迫田さんに、立て続けに自分を駆り立てる出来事があった。
ひとつは7年前、7歳からの友人を訪ねたときのことだ。72年間、一度も原爆のことを語ることはなかったが、死期が迫った友人はこれまで誰にも言えなかった胸の内を突然打ち明けた。
「あの暑い夏、瓦礫の中、両親を探しまわり、白骨化した両親を発見して衝撃を受けた。さらに、自らが入市被爆して血液がんにさらされ、入退院を繰り返していた」
知り合って72年、迫田さんは、彼が被爆していたことを初めて知った。3か月後、彼は亡くなった。
もうひとつは2016年、田川康介(たがわやすすけ)さんの被爆体験を聞く機会があった。17歳のとき爆心地から2.5キロで被爆した田川さんは、約30年後に皮膚がんや網膜症など被爆の影響があるとされる病気になった。さらにその3年後、甲状腺障害を発症し、喉に異変を感じたと話していた。声がうまく出ない、固いものが飲み込めないという。
その証言を聞いた迫田さんは不安と衝撃を受けた。自分自身の甲状腺障害と重なったのだ。主治医は、黒い雨と放射線、甲状腺障害、その因果関係は否定も断定もできないと話した。でも終生治療を要す病気になっているのは事実だ。そのような精神状態での田川さんとの出会いに、迫田さんは、運命を感じた。
それから約4年間、田川さんの話を聞き、メモを取り、質問をし、自分の体に叩き込んだ。そして、2020年3月、広島市から田川さんの被爆伝承者と認定された。その頃、田川さんは全身のがんで亡くなった。迫田さんは田川さんに代わり、伝承者として原爆の恐ろしさを伝える活動を始めた。
「目に見えないわけですから、空気みたいなもの。匂いもないし、測ることもできない。それが身体の中に入って遺伝子や細胞を傷つける。それががんになるリスクが非常に大きい、まさに毒針だ」
被爆伝承者を始めて2年が経ったころ、大きな転機が訪れた。迫田さん自身が「被爆者」だと認められたのだ。
「黒い雨」は被爆直後の調査をもとに援護対象区域が指定され、そこに住んでいた住民が被爆者とされていた。しかし、黒い雨はもっと広範囲で降ったとして、長年調査や裁判が行われ、住民は援護対象区域を拡大するよう訴えていた。そしてついに2021年、被爆者認定区域が拡大した。2022年、爆心地から19キロで「黒い雨」を浴びた迫田さんも新たに「被爆者」と認定されたのだ。黒い雨にあって77年が過ぎていた。これまで「被爆伝承者」として田川さんの被爆継承を考え伝えてきた迫田さんだったが、国の線引きにより被爆者として認められたことで、「被爆証言者」として自身が体験したことも伝える決意をした。
「人生最後の務めとして、自分が経験した原爆の威力と放射性物質を含む黒い雨の恐ろしさを1人でも多くの人に伝えたい」
86歳になった迫田さんは今、求められれば県外へも出向き、修学旅行生を中心に、若い世代へ被爆証言をしている。週に3回水泳に通って体力づくりに励み、できる限り伝え続けていきたいと考えている。
「平和は空気みたいなもので、80年近く続くと人間誰でも当たり前だと思っている。だけど、今のイスラエルやガザ地区を見ると当たり前じゃない。日本を取り巻く環境は非常に厳しい。戦争のない時代を作るのは、みなさん一人一人です。私たちはあと10年すればいなくなる。だからこそ皆さん一人一人が伝承者になって伝えてほしいんです」
一人でも多くの人たちの心に、平和の灯をつけたいと考えている。もう2度と愚かな戦争を繰り返さないように。そして、それを伝え続けることが、体験した者の使命だと胸に刻んでいる。
石井百恵
TSSテレビ新広島報道制作局報道部去年のG7広島サミットで、核保有国を含むG7の首脳が原爆資料館を見学し、被爆者から被爆体験を直接聞いたことは、被爆地にとって前進でした。一方で、核抑止力を是認するかのような動きがみられたことは失望も招きました。世界の現状を鑑みながら、歩みを少しでも進めようとする被爆地出身の岸田首相のその後の動きに僅かな期待を抱いていましたが、結局何も現実的な成果を残さないまま、退こうとしています。
迫田さんを含め、つらい経験をした被爆者が、なぜ語りたくない過去を語ろうとするのか、それは同じ経験をだれにも味わわせたくないからです。今こそ広島に来て被爆者の声に直接触れてほしいです。被爆者の残された時間は限られています。その声を聴くことは今しかできません。
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