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「父はBC級戦犯で絞首刑に」存在を隠して生きた息子 唯一のつながりは処刑前の「8通の遺書」 #戦争の記憶

金咲和歌子
金咲和歌子 毎日放送 報道情報局報道センター 記者

遺書でつながった『父と子』。今でも息子はたどり続けています。

太平洋戦争の終結後、「BC級戦犯」として処刑された父。息子にとって唯一のつながりは8通の遺書だけでした。死を目前にした父。そこに記されたのは、日本へ残した子どもへの思いでした。遺書を受け取った息子は父親について話すことを禁じられ、父親の存在をひた隠しにして暮らす日々でした。しかしその後、ある男性との出会いで処刑直前の父の様子を知ることができました。息子がこれまで抱いてきた思いに迫ります。

衛生兵として外国人捕虜の治療をしていた父


太平洋戦争が終結した翌年に書かれた遺書。死を覚悟しながらも、我が子を案ずる親の愛情がうかがえます。

兵庫県西脇市に住む寺越脩さん、84歳。この遺書を書いた寺越恒男さんの息子です。

「親父のぬくもりというのが今でも知りたいで。だけどそれは無理な願いや」

父・恒男さんは脩さんが産まれてすぐ、軍隊に召集されました。太平洋戦争中に日本軍が東南アジアで行っていたタイとミャンマーを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設。ビルマ戦線へ補給物資を運ぶため全長415キロを結ぶ計画で、オーストラリアやアメリカなど連合国の捕虜5万人以上が投入されていました。

恒男さんは、この鉄道を建設する部隊に従軍し、過酷かつ劣悪な環境で働かされていた外国人捕虜などの治療に衛生兵としてあたってきました。

しかし、1945年に日本が敗戦すると恒男さんは捕虜への虐待容疑をかけられシンガポールのチャンギ刑務所に送られます。親族などによりますと、理由は恒男さんが捕虜に施していた「お灸」だったということです。

「お灸の資格を持っていたもので、日本から医薬品が送ってこないやん。そのときに僕の親父は灸を据えた」「火傷の痕が残っていると、火で拷問したと」

「戦犯」で処刑された父...「表立って言わんように」封印された父の存在

敗戦後、連合国から戦争責任を追及された日本。東條英機ら指導者層が「A級戦犯」として裁かれた一方で、900人以上が捕虜への虐待などを行った「BC級戦犯」として死刑になりました。

チャンギ刑務所にいた恒男さんもまた、虐待の罪で絞首刑になったのです。37歳でした。

恒男さんが処刑されたという知らせが届いたのは脩さんが5歳のころ。母も家を出ていき、親戚に引きとられて幼少時代を過ごしました。当時、終戦直後で食べ物が少なかったことから、家では「何もしないのによく食べるな」と小言のように言われ、おかわりすらできない日々。学校の授業代も自ら働いて賄っていて、脩さんは何度も「親父がいてくれたら」と思ったといいます。

親族からは固く、父親の存在について話すことを禁じられていました。

「『お前の父は戦争犯罪人になった、死刑になった』と。『そういうことは表立って言わんように』と。言ったら差別されるからと」

届いた父の遺書見て「これで繋がるんかなあと思ったら...侘しい」

父について話すことすら憚られた少年時代。訃報から5年が過ぎたころ、日本兵の遺骨収集事業の一環で脩さんのもとに父の遺品が届きました。箱から出てきたのは、恒男さんの遺髪と家族に宛てた8通の遺書でした。便箋が足りなかったのか地図の裏に書き留めたものもありました。

長男の脩さんに向けては次のような記載がありました。

「どの文章を見ても僕たちのことをお願いしますと。死刑執行されることがわかって、二人の子どもを残してほんとうにつらかったと思うねん。これを書くにあたってな。これで親父と繋がるんかなあと思ったら...なんか侘しいなあ」

20年以上たち...脩さんのもとへやってきた1人の男性「お前の親父は優しい男だ」

父・恒男さんの死から20年以上たったある日、父の存在を思い出させる出来事がありました。当時30代で、喫茶店を営んでいた脩さんのもとに、見知らぬ男性が訪れます。男性は、自身を「陰山守男」と名乗りました。実は、脩さんの父と同じくチャンギ刑務所に収監されていたのですが、無事帰国。刑務所で一緒だった恒男さんの遺族が近くにいると知り、脩さんを訪ねてきたといいます。

陰山さんは当時のチャンギ刑務所での様子について「生き地獄やった」「きょうはお前・あすはお前とその日に指名されて死刑になる」と話しました。

一方で当時の父について「お前の親父は気立てのいい優しい男だぞと。そんな間違ったこととか考えはもってない」などと、父の様子を知ることができ、脩さんは、父の事を知ってくれている人がいることに感動したといいます。

そして、守男さんから『(脩さんの)父親の遺骨はシンガポールに眠っている』と伝えられ、「墓参り行けよ」と言われたということです。

その出会いから50年以上。父の存在を教えてくれた守男さんは亡くなりましたが、今は守男さんの義理の息子である男性(修造さん)らと、定期的なやり取りを続けています。

"135人の頭がい骨"埋まる簡素な墓に衝撃「この人らが浮かばれへん」

「父の最期の地を自分の目で確かめたい」その気持ちを胸にシンガポールへ向かった脩さん。刑務所近くの寺にあったのは、「殉難納骨百三十五柱」と刻まれた小さな石碑でした。

あまりの小ささに、父・恒男さん1人の墓だと思ったそうです。しかし実は、チャンギ刑務所で処刑された135人の遺骨が眠っていることがわかり、脩さんは衝撃を受けたといいます。せめて全員の名前を刻んだ墓標を建てようと戦犯者名簿を頼りにほかの遺族に連絡を試みましたが、所在が分からない人も多くうまくいきませんでした。

「135人の頭蓋骨がここに埋まっていると。悔しさというよりこの人らが浮かばれへんと思ってな。あのままやと仏にならん」

「高望みはせえへん。ほんまに普段の生活がほしかった」遺書見て思う息子

戦後79年となる今も、脩さんは遺書を"父と繋がる唯一のもの"として大切にしています。遺書の最後の1通の日付は恒男さんの処刑当日。脩さんの姉・和子さんと弟に宛てたものでした。

「別に何も望むものはないけど、親父と対面でお茶を飲みたかったな。高望みはせえへん。ほんまに普段の生活がほしかったな。それ以上のものでも以下でもない」

編集後記

金咲和歌子

金咲和歌子

毎日放送 報道情報局報道センター 記者

寺越恒男さんが残した8通の遺書。理路整然とした文章は、とても今から絞首刑に処せられる人が書いたとは思えませんでした。外国人の捕虜を治療するために施した「お灸」が「虐待」とみなされるという、理不尽すぎる状況。しかし、恒男さんの遺書に恨みつらみは一切書かれていません。ただただ幼い2人の姉弟を案ずる内容でした。でも、どれほど無念だっただろうと思うのです。取材中、息子の脩さんは何度も「親父とお茶を飲んでみたかった」と口にしました。戦争が奪うのは人々の「日常」であり、今、私達が送るありふれた日々がいかに尊いものなのか、改めて実感しました。

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