県民の約4人に1人が命を落とした沖縄戦。全身泥まみれになりながら、ガタガタと震える少女の映像は、その悲惨さを伝える象徴的なものとして知られている。少女の正体は戦後長らくわかっていなかったが、6年前に浦崎末子さん(88)が名乗り出た。銃弾が飛び交うなか逃げ回り、家族4人を亡くした。「カメラを鉄砲だと思い、殺されるかと思った」。しかし、直後に自宅を訪ねてきた知らない男性に証言をとがめられ、それからは口を閉ざしていた。戦後80年、多くの子どもが戦争で犠牲になっている現状が当時の自分と重なった。平和への思いを次世代に託すため、再び取材に応えてくれた。(琉球放送 仲田紀久子)
当時7歳だった末子さんの姿は、米軍が撮影した沖縄戦の記録映像のなかにある。たまたまテレビで映像を見て、着物の柄から自分に違いないと気付いた。新聞取材をきっかけに、6年前に名乗り出た。
震える少女の視線はうつろで、放心状態に見える。80年前、少女はどんな思いでカメラを見つめていたのか。那覇市の末子さん宅を訪ねて、あらためて映像を見てもらった。
「水筒の水を飲ませているんだね...私よ。7歳」
「あの時の怖さ、いまだに思い出す。(アメリカ人を)初めて見るから、怖いよ。青い目は見たことないさ。怖くて大変だった。カメラを向けられて、それを鉄砲だと思い殺されると」

1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。沖縄戦を指揮していた日本軍第32軍が司令部を構えていた首里へ向かう。米軍の圧倒的な攻勢に首里の陥落が目前に迫り、日本軍は南部への撤退を決める。この決断により多くの住民が戦禍に巻き込まれることになる。
末子さんは、激戦地となった南部・糸満市で沖縄戦を体験した。銃声が鳴り響き砲弾が飛び交う戦場を逃げ惑い、途中、倒れる人がいる中を必死に逃げた。「次に死ぬのは自分かもしれない」そんな思いで逃げ続けた。
取材班とともに、激戦地となった糸満市にあったかつての実家近くを訪れた末子さん。沖縄戦末期の1945年6月は、母親と姉・弟とともに、実家そばにある墓に避難していた。逃げまどった道をたどると、鮮明な当時の記憶を語ってくれた。

寝静まっていた深夜、一家は爆音で目を覚ました。
「ちょうど夜中だった。母親が『ここにも来るから早く起きなさい、逃げろ』と」
隣の家に砲弾が直撃したことを知った一家は、墓を出て避難することを決めた。その道中で母親が流れ弾を受ける。
母親は「どうせ死ぬんだから別のところで亡くなるより壕に入って死んだ方がいい」と言って、末子さんに姉とともに逃げるよう告げた。
末子さんは母と幼い弟と別れ、15歳年上の姉の背中におぶられて暗闇の中を歩き続けた。
途中、姉が「母の様子を見に戻る」と言い、末子さんに先に逃げるよう伝えた。7歳の末子さんは、戦場でひとりになった。
そして、後に「震える少女」が撮影されることになる場所へと進んでいく。

「裸足だと思う。夜中だから、照明弾で空は真っ赤。這いつくばりなさいと言われて歩きながら這いつくばって。上は見られないくらい赤くなって。道で亡くなっている人もいたよ。頭を撃たれて倒れているのを壕のそばで見た。どこのお母さんだったかわからんけどね、子どもをおんぶして与座の川におしめを洗いに行って倒れて...」
末子さんの実家の墓からは約700メートルほど離れた、糸満市大里。現在は農道になっている。この付近に1人でいたところ、米兵と遭遇した。戦闘に疲れ果てていたのか、道端で眠っていた。
「(暗くて)怖さも何もわからん。アメリカ兵は眠っていた。帽子をかぶって、鉄砲を置いて」
そこから100メートルも歩いただろうか。末子さんは別の米兵に捕らえられる。その兵士は水筒を差し出した。その様子を映したのが、後に伝わる「震える少女」の映像だった。
「アメリカ兵が水を飲ませた。吐き出した覚えもある。怖くて。薬が入っているんじゃないかと」「アメリカ軍からもらうものには毒が入っていると書いたビラが配られていたから、最初は飲まなかった。でも(兵士が)自分で飲んで見せよったよ」
「持ち上げられて車に乗せられた。この時が一番怖かったよ... どこに殺しにいくのかね。どこで(自分は)亡くなるのかと思っていた」

その後、末子さんは捕虜となり米軍の収容所に入った。そこで母と姉、5歳の弟と再会を果たす。母は腹部に傷を負い歩けない状態に、そして弟は催涙弾を受け衰弱していた。
「ガスのんで(吸い込んで)、夜寝かせている間に亡くなった」
砲弾から出たガスに苦しんだ弟は、収容所で十分な栄養が取れず、そのまま亡くなってしまう。戦前はいつも一緒に遊び、手を繋いで学校に通った弟だった。適切な治療を受けられず、「キー、キー」と苦しむ声をあげながら死んでいった弟の姿は、今でも末子さんの脳裏に焼き付いている。
さらに姉も、避難する際に受けた傷がもとで体調を崩し、戦後亡くなった。沖縄戦は、防衛隊に徴集された父と兄、そして姉と弟4人の家族の命を奪った。
末子さんが、地元糸満市に戻れたのは終戦から約2年後。焦土と化した故郷で生活の再建が始まった。末子さんは洋裁学校で学び、米軍人の住宅でハウスメイドとして朝から晩まで働き家計を支えた。激しい地上戦の舞台となった米軍統治下の沖縄では、基地との関わりで職を得る人が多かった。その後、基地内で通訳をしていた夫・直盛さんと出会い21歳で結婚。3人の子を育てあげた。
長年、基地で働き家族を支えた夫に配慮し自身の体験を語らずにいた末子さん。次の世代に平和への思いを託したいと、今回心にしまっていた記憶を話してくれた。

国籍や軍民を問わず、沖縄戦や南洋戦などで亡くなった24万人あまりの人々の名前が刻銘される「平和の礎」には、末子さんの父と兄の名前が刻まれている。ただ、戦後80年を迎えた現在まで末子さんは一度も足を運んだことはない。その理由を問うと「戦争を思い出すことは苦しい」と一言だけ答えた。
―戦後80年経ちますが今何を思いますか?
「戦争はもう、ないようにお願いします。助けてくれてありがとうございました。一番戦争が怖い。なくしてほしい。なんで止められないかね。戦争の犠牲...考えてもらいたい」
仲田紀久子
琉球放送学生時代に平和教育の授業で目にした震える少女の映像は今でも鮮明に記憶に残っている。わずか7歳の少女はあの戦場で何を見たのか、記憶を次世代に語り継ぐために話を聞きたい。そんな思いで浦崎末子さんの自宅を訪れた。優しい笑顔で迎えてくれたが、取材は当初、何度も断られた。それだけ沖縄戦を語ることは辛く、当事者にとって思い出したくない記憶なのだと実感させられた。生き残った者たちもそれぞれが葛藤を抱え、苦しみの中を生きてきたのだ。
末子さんが「この少女は自分だ」と名乗り出たのはわずか6年前のこと。その直後に、知らない男性が自宅を訪れ証言をとがめられた。そこから自身の体験をほとんど語らずに過ごしてきた。それでも今回、戦後80年の節目に語る決意をしてくれたのは、私たち世代に託したい思いがあったからではないだろうか。隠れていた壕を出て、米兵と遭遇した場所までの道のりを共に歩いた際、末子さんは何度も「怖かった」と口にした。7歳の少女が、暗闇の中泥まみれになって死体が転がる道を必死に逃げた恐怖はどれほどのものだったか。今を生きる私たちには想像することができない。それでも、想像しなくてはいけない、記憶を繋がなくてはいけない。取材の最後に私の手を握ってくれた末子さんの手から、託してくれた思いを受け取った気がした。
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