「映像の男の子は私です」。被爆2か月後の映像にうつる「おんぶされる男の子」が、77年の長い年月を経て名乗り出ました。竹本秀雄さん(82)は、3歳のときに広島で被爆。自宅の下敷きになり、左頬には今も大きな傷が残っています。そして、13歳の姉を失いました。「呪縛が解けた」と自身の体験を話し始めた竹本さん。今年の正月に初めて娘たちにあの日の記憶を伝えました。
「生きていました」。77回目の「原爆の日」を控えた2022年7月、広島県呉市にある自宅を訪れた記者たちを、竹本さんは声を震わせながら出迎えました。
フィルムの中の竹本さんは3歳でした。おんぶされ、顔には包帯が巻かれていました。
「左頬が裂けて。中の骨が見えていたらしいです」
おんぶしていたのは、当時11歳だった兄の定男さん。兄に病院へ連れて行ってもらい、新しい包帯に取り替えてもらった帰りだったと思われます。
1945年8月6日午前8時15分。人類史上初めて、原子爆弾が人の頭の上に落とされました。
竹本さんは、爆心地から1キロの自宅で被爆しました。自宅の下敷きになった竹本さんを、定男さんが見つけてくれたといいます。
「『秀雄がここにおる』と兄が見つけてくれた。兄が見つけてくれなかったら、その後、自宅が焼けましたからね。ここにいなかったと思います」
たった一発の原子爆弾は、広島の街を破壊し、焼き尽くしました。爆心地から半径2キロ圏内のほとんどの建物は、全壊、全焼。死傷者の数は未だに解明されていませんが、その年の暮れまでに、原爆によって奪われた命は約14万人に上ったともいわれています。
竹本さんも写る被爆から2か月後を捉えたフィルムは、原爆被害の調査に同行していた日本映画社のスタッフの手によって撮影されたものです。密かに保管され、1993年に東京の倉庫で見つかりました。
見渡す限り焼け野原となった街、大やけどを負い、放射線の影響で力なく横たわる被爆者たち...。2時間近くにわたり、広島の姿が記録されています。
私たちはこのフィルムの所有者と協力関係を築き、映像に写る場所や人物を特定し、取材を重ねて来ました。
一方で、栄養失調とみられる生後間もない赤ちゃん。大八車や荷台に載せられ救護所へつられてきた少年。診察の順番を静かに待つ女の子...。こうした子どもたちなど、特定に至らなかった人たちも多くいます。
「おんぶの男の子」竹本秀雄さんも、その一人でした。
竹本さんは7歳の時、父親の仕事の都合で北九州に引っ越しました。
「小学校に入ったときは、『ピカドン、ピカドン』と言われました。あだ名でね。だけど、いじめられた記憶もない。今思えば、それがいじめだったのかもしれないが、当時はどうもなかったですよ」
ただ、左頬の傷跡は、ケロイドのように盛り上がっていたといいます。
「傷跡が醜くてね。19歳の時に外科で削ってもらいました。ジキッジキッという音をいまでも覚えています」
中学を卒業後、理髪店で修行を積んだ竹本さんは、広島に戻り、1968年、26歳のときに呉市で自分の店を構えました。
それから四半世紀ほどがたち、被爆2か月を記録したフィルムが見つかりました。被爆50年となる1995年をはさんで、当時3歳だった竹本さんの姿も幾度となくテレビなどで流れました。
竹本さんは、自分が映った古いフィルムを持っていました。義理の兄が偶然観た映画の中で、弟たちの姿を見つけたそうです。上映後に映写室で事情を説明し、フィルムを切り取ってもらったといいます。
「映像の男の子」が自分であることは、ごく親しい友人にしか伝えませんでした。そして、他の人に広めることは、許しませんでした。
「差別を受けるとか、そういうことは思ったことはない。ただ、被爆体験を話しても理解してもらえないという思いが、どこかにあったんでしょうね」
また、日々の理容院の仕事も忙しく、ほかのことを考える余裕もなかったといいます。
半世紀ほど営んだ理容店を閉めしばらくたった2022年。竹本さんの気持ちに変化が起こりました。きっかけは、友人からのこんな依頼でした。
「被爆77年に併せて開催する原爆展で"おんぶの兄弟"の写真を展示させてほしい」
友人からの依頼を了承し、その原爆展で初めて自身の体験を話しました。
「証言した日の帰り道に、呪縛がとけたように感じましたね。『いつかは名乗り出なくてはいけない』。その思いが、心の底にはあったんでしょうね」
当時3歳だった竹本さんにあの日の記憶は、断片的なものしかありません。
逃げる途中に橋が炎に包まれていく様子、水を求めていたのか左手を挙げて何かを訴えかけている女性...。
明確に記憶しているのは、これらの場面だけです。初めての証言を終えた後、竹本さんは、記憶を補完するため、広島市内に住む5つ上の姉・幸枝さんに、当時の状況を聞くようになりました。
「それまでお互い原爆の話はしてこなかった。でも姉に聞くと、堰を切ったように話してくれた。涙を流しながらね」
「お互い年寄りだし、会っておこうね」と時間を見つけては幸枝さんに会いにいっています。そして、あの日のことを知り、伝えるために、姉から聞いた話と自身の断片的な記憶を結びつけ、証言をしています。
2024年7月に東広島市であった原爆展に竹本さんの姿がありました。この場所は、初めて被爆証言した場所です。この日、竹本さんは10歳離れた姉の君江さんの話をしました。
当時13歳だった君江さんは、建物疎開作業中に被爆。その後の足取りが分からなかったといいます。原爆投下から20日以上たったある日、「似島に収容されている」と情報が入りました。
広島市沖に浮かぶ似島には、陸軍の検疫所があったため、原爆投下直後から次々と被爆者が運ばれて行きました。その数は、1万人ともいわれています。 竹本さんの両親が似島へ行き、収容所で君江さんを探しているときでした。
「突然、向こうから『お父ちゃん、お母ちゃん』って声が聞こえたんですって。それが姉だったんです。だから、待っとったんでしょうね。親をね」
家族と再会を果たした君江さんでしたが、その翌日の8月30日に息を引き取りました。まだ13歳でした。
当時3歳だった竹本さんに、君江さんの記憶はありません。写真も残っていないため、君江さんを感じられるものも、ありません。それでも、君江さんの存在を忘れたことはありません。
「日本の終戦は8月15日ですが、私はそうは思いません。うちでは、終戦は8月30日。これはずっと言っている。終戦は8月30日だと」
被爆から80年となる2025年。正月に家族が集まったとき、初めて娘2人に被爆の体験を話しました。
「いまから被爆の話をするというような、かしこまった感じでなく、家族団らんの中で、ふと似島の話になり、自然と被爆体験の話になりました」
断片的な自身の記憶、原爆で奪われた姉・君江さんの話...。娘2人は真剣に聞いてくれたといいます。
「もうすぐ83歳ですから、いつどうなるか分からない。やっぱりどこかで『娘たちにも伝えないといけない』って気持ちがあったんでしょうね。話せて良かったと思います」
「おんぶされた男の子」と名乗り出てから間もなく3年。海外のメディアからも取材を受けるようにもなったという竹本さん。今年も依頼があれば、「家族の物語」を伝えるつもりです。
「普通のケガなら治るけど、原爆で受けた傷や放射線の被害、その心配は一生続く。"原爆は一生の病"だと、やはり伝えたいですね」
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※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「#きおくをつなごう」の共同連携企画です。記事で紹介した被爆2か月後のフィルムに写る人や場所などに心当たりのある方は「戦後80年 #きおくをつなごう」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
また、企画趣旨に賛同いただける方は、身近な人から聞いた戦争に関わる話や写真を「#きおくをつなごう」をつけてSNSに投稿をお願いいたします。
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