1945年、原爆投下から2カ月後の長崎で、長身の男性がひとり焼け残った壁に何かを書いていた。左手で書く大きな"伝言"―。解読で浮かび上がったのは、「大黒町」「田辺文具店」の文字だった。わずか2秒の映像に刻まれた、原爆で消えた町の記憶。80年の時を超え、謎だった男性の正体が明らかになる。
原爆投下の翌月、日本映画社(日映)が広島と長崎で「記録映画」の撮影を始めた。 映画は翌年に完成したが、映像はすべてアメリカに没収された。
ところが――。
撮影スタッフたちは、未編集の複製フィルムを密かに現像所の天井裏に隠していた。存在がオープンになったのは1952年4月の占領解除後。その中に、場所も人も分からない、2秒間の謎のカットがあった。
国民服を着たやせ型の男性が、カメラの方をじーっと見ている。別のカットでは、その男性が建物の白壁に近づき、左手で何かを書いている。わずか2秒の映像だ。
映像を4K化すると、背景に長崎駅近くにある「中町教会」が写り込んでいることが分かった。さらに、壁に記された文字も浮かび上がってきた。
「大黒町」「消防」「田辺文具店」「森島家族一同無事」。
大黒町は、長崎駅前に広がる町だ。しかし、現在長崎市に「田辺文具店」はない。
「森島」は過去の電話帳に2件。1件の森島さんにはつながったが「自分は戦後生まれで、父親は終戦後2~3年シベリアに抑留されていた」という。映像の男性ではないようだ。
古い地図を探すと、大正時代の地図の裏、広告欄にその名が見つかった。
「文具油商 田邉勘蔵商店」。住所は大黒町。確かに、「田邉文具店」は戦前の大黒町に存在していた。
大黒町の住民にも聞いてみた。「田辺文具店」や「森島家」に心当たりは?
返ってくるのは、首をかしげる反応ばかりだった。
「聞いたことなかね...。文具店はあったけど、タナベじゃなかった。だいたい戦後の道路拡張で、大黒町は丸ごと移ってきたとやもんね」(現大黒町住民)
そんな中、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に残された、ある証言にたどり着いた。
『父は大黒町で八百屋を営んでいました。店は中町教会の近くでした。隣は菓子屋でその隣が文具店でした』(追悼平和祈念館所蔵手記より)
証言の主は山田正和さん(91)。被爆当時は国民学校6年生で、今も長崎市に住んでいる。
山田正和さん
「9日の夜、僕は防空壕に一人で逃げ込んどったんです。そしたら、顔が水ぶくれで髪を振り乱した母親と娘が入ってきて『水をくれ...』って。でも、当時は水を飲ませると死ぬって言われとったけんね。誰もあげんかった。あの親子は、死んだやろうね...。ひどい、ひどい火傷やった。でもどうすることもできんしね」
大黒町は爆心地からおよそ2.5キロ。9日昼過ぎには町に火の手がまわり全焼した。土蔵だけがぽつりぽつりと残り、その周りで亡くなった人を焼いていたという。11才だった山田さんは、その煙をただじっと眺めていた。
山田さんは、当時の大黒町住民が作ったという復元地図も持っていた。被爆直後まで、一帯には多くの住宅や店舗が立ち並んでいたことが分かる。そして、あの伝言が書かれた土蔵の向かいに、「田辺文具店」の名前があった。
さらに、大黒町の前自治会長・片岡さんから思いがけない重要な証言を得た。
大黒町前自治会長 片岡憲一郎さん
「田邉文具店は戦後、今自分が住んでいる場所にあったんです。息子さんとは今も年賀状のやり取りをしています」
映像に映る左手で壁に文字を書く長身、細面の男性...。映像をじーっと見た後、田邉さんはつぶやいた。
田邉高明さん
「......親父じゃないかな。口元がよう似とる」
―お父さんは左利きでしたか?
田邉高明さん
「うーん覚えてないけど...片腕が不自由でどっちかの手が上にあがらんやった。赤ちゃんの頃肩の骨を折ったとかって。未だに覚えとる。それで軍隊には行かんでよかった。『身体障がい者は役に立たん』と言われたって」
改めて映像を確認してみた。男性は左手で文字を書き、右手はだらんと体の前に垂らしているように見える。田邉さんが記憶していた父親の姿と一致した。
父親の名前は「田邉高繁」さん。
1903年(明治36年)2月5日生まれ、被爆当時は42歳。
田邉家は市外に疎開しており、当時は高繁さんだけが長崎市に通って文具店を続けていた。従業員を4~5人雇っていたという。高繁さんは4人の子供たちに、原爆の話はほとんどしていなかった。当時のことを知る手掛かりは、高繁さんの弟が甥と姪のために遺したという手記だけだ。
『原爆投下時、兄・高繁は市内の文具商に仕入れに行っていて、 爆発の瞬間は机の下に潜り込んだことは皆も兄から聞いている事だろう』 (弟・博繁さんの手記より)
弟の博繁さんは、1946年5月に復員し、その後長崎に帰ってきている。
『駅前には、もう何もなかった。見渡すかぎりの焼け野原。 家族は全員原爆で死んだものと、私は覚悟していた。 ――戦ボケというのか、悲しみもなく、ただ無神経に、うろうろと歩いていた』 (手記より)
田邉文具店の跡には、曲がりうねった大きな鉄骨が一本、横たわっているだけだった。
疎開していて、原爆の直撃は免れていた田邉家。兄・高繁さんは、駅前の世帯に物資を届けるため、毎日大黒町へ通ってきていた。そして兄弟は、7年ぶりの再会を果たした。父親の田邉勘蔵さんは、再会の1カ月前に亡くなっていた。
『一目オヤジに逢わせたかったな――と、あの気の強い兄が涙ぐんだ。 後にも先にも、兄の涙を見たのは初めてだった』 (手記より)
その後兄弟は焼け野原になった長崎駅前で、リンゴ箱と戸板で作った棚に商品を並べて店を開いた。2人は被爆後の長崎駅前で初めて商売を始めた人だった。何でも屋から始めて、元の文具店、さらに不動産業や寿司屋などを営んだ。絶えず借金に追われながらの経営だったという。
田邉高明さん
「父はずっと苦労してきたけど、とにかく弱音は吐かない、豪放磊落。家の中は火の車やったとに、それでも笑っとった。いつも前向きで人生にトライする人やった」
高繁さんは1989年(平成元年)5月15日他界、享年86。 一緒に苦労を重ねた妻・秀子さんは1997年(平成9年)に他界、享年86。 苦労話は子どもたちには語らず逝った。
田邉さんは、父親から戦前の写真も引き継いでいた。
タバコ専売局の煉瓦塀、山手には寺、そして原爆で焼ける前の「田邉文具店」。
戦前の大黒町の町並みが分かる写真はこれまで一枚も見つかっていない。80年前、1発の原子爆弾が焼き尽くした町。そこで生きた人々の息づかいが写真から立ち上る。焼け残った壁に、ひとり伝言を書き残した男性は、この町で生きていた。
「親父が会わせてくれたのかもしれん...俺にも似とるね」
最近、特に父親に似てきたという田邉さんは、そう言って泣いた。
80年の時を超えた2秒の"伝言"が、原爆で消えた町と今を生きる私たちを静かに繋いだ。
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※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「#きおくをつなごう」の共同連携企画です。記事で紹介したフィルムに写る人や場所などに心当たりのある方は「戦後80年#きおくをつなごう」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
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