"勇ましさ"が溢れる世界で 戦時下の障碍者たち

ロシアの侵攻はウクライナに住む人々の日常を変えた。中には障碍を抱え、生活を変えるのが困難な人たちがいる。記者が現地を歩いた。


児童公園に着弾...奇妙な静けさに包まれたマンション群

マンションの5階に着くと配電パネルの前に黒い合皮の車いすがあった。ヘッドレスト、足を支えるパーツ、重度障碍者用だ。背後から声がかかる。白髪まじりの長い髪を後ろで一つに束ねた女性は、穏やかな、そして少し疲れたような表情を湛えていた。アンナさん(55)。これから訪ねる家の住み込み介護士だ。

玄関に入ると大きなゴールデン・レトリバーが勢いよく寄ってきた。アンナさんが首輪をつかんで引き戻す。左奥の部屋のドアが開いていて、介護用ベッドに横たわる男性が見えた。少し伸びた頭髪が乱れていた。

アンナさんたちが暮らすのは、キーウ近郊ホストメリの街はずれにある新し目のマンション群だ。どの棟も8~9階建てのモダンな外観で、最上階はペントハウス風になっている。敷地内にはコンビニ、美容室、レストラン。快適な暮らしを約束するセールス用のウェブサイトによれば、3LDKで90㎡超のファミリー向け物件から40㎡程度の単身者/若いカップル向け物件までが揃っていて、キーウへの通勤の利便性もアピールされている。各棟に囲まれるように児童公園があり、去年の今頃は春の陽気の中で遊び回る子供たちの声が弾け、見守る親たちが立ち話をする、そんな東京の郊外でも見られるようなありふれた日常があったのだろう。

しかし今、その児童公園のど真ん中には砲弾が着弾した跡がある。ここで大人2人が亡くなったそうだ。ヒヨコ形の木製の遊具や、鮮やかな配色の幼児用滑り台には破片が貫通した穴が開いていた。着弾場所に面したマンションの窓は360度、ことごとく破損している。自慢のショップも全て閉まり、ちらほらと人の姿はあるが、奇妙な静けさが漂っている。ウェブサイトに描かれた「輝きにあふれた生活」の抜け殻だけが残っていた。


「キエフを地上から消し去ってやる」

ロシア軍は2月24日の侵攻開始直後からホストメリにある空港と街自体を制圧、このマンション群に駐留した。軍用車両はウクライナ軍のドローンから隠すために棟のエントランスを破壊してそこに停めていた。アンナさんによれば部隊は入れ替わりがあったという。

「最初に来た部隊は筋骨隆々でいかにもプロの兵隊って感じでしたけど、交代で来た部隊はとても若く体も細いのが多くて、これで良く軍隊に入れたわね、と思いました」

略奪もあった。ロシア兵たちは住人が既に避難して不在だった部屋を中心に狙ったという。住人がいても外に出るよう命じて、部屋を物色していったケースもあったそうだ。アンナさんが聞いた範囲では、結婚指輪、高価なギター、子供服なども被害にあった。スニーカーも「人気」だった。

「なぜ子供服なんて盗んでいくんでしょうか。新品でもないのに・・・。」

兵士と話をした住人によれば「なぜ自分たちがここにいるのか分からない。恥ずかしい」と言う兵士もいれば「キエフを地上から消し去ってやる」と息巻く兵士もいたそうだ。

このマンション群の入り口から少し行けば"虐殺の街"として有名になってしまったブチャがある。ここではブチャのような虐殺は起きなかったし、ブチャで何が起きているかも当時はわからなかった。

「知っていたら、もっともっと怖かったでしょうね」。

ただ、負傷した女性2人と、うち1人の夫がロシア軍に「治療のため」ベラルーシに連れて行かれた。その後、夫はベラルーシで拘束・投獄され、女性2人については病院にいる、と説明されたものの、そのまま音信不通になってしまったという。この手の話はキーウ近郊ではよく聞いた。持ち主を失った車はマンション群の敷地内で大破したまま毛布が掛けられ放置されていた。


自分のせいで母親も逃げられない。それはどんな気持ちだっただろうか。

一通りアンナさんに話を聞いた後、左奥の部屋に入り、介護ベッドにいる男性、アントンさんに挨拶をする。ベッドそばの窓からは、ほとんどの窓が割れた隣の棟が見えた。

アントンさんはドネツク州出身で現在35歳。小さい頃に両親が離婚して母親のイリーナさんに引き取られた。車好きで、写真立てにはバイクに跨ったりスポーツカーの横でポーズを取ったりしているアントンさんの写真が入っている。12年前、まだ学生だった頃にクモ膜下出血を起こしてほぼ寝たきりとなった。声は出せるが、言葉は発せない。気管は切開されていてアンナさんによる淡の吸引が欠かせない。頭蓋切除術を受けたせいだろう、頭部が一部くぼんでいる。目はこちらをじっと見ていた。

8年前、ドネツク州でロシアの支援を受けた親ロシア派とウクライナ政府側との戦闘が始まり、危険を感じて600キロ以上離れたここホストメリに母子で移ってきた。イリーナさんはキーウに仕事に行くので、アンナさんが住み込みで介護をしている。戦火から遠く離れた地に落ち着き、身動きこそとれないが、アントンさんは穏やかな日常を過ごしていた。そこへ今回の侵攻が始まった。まるで戦争が、ロシアが、追いかけてきたように感じただろう。

砲撃音や空襲警報が響いてもアントンさんは地下シェルターに避難することはできなかった。介護ベッドは部屋の中で組み立てられたもので、大きくて部屋から出せない。たとえ出せていたとしても、電力の供給が途絶えていたのでエレベーターは使えず、5階から降ろすことは不可能だっただろう。エレベーターホールで見た車いすには数年前から座れなくなっている。筋力が弱り、もはや姿勢を保つことができないのだという。

「抱えて運んだら移動に時間がかかるし、かえって危険にさらすことになってしまったでしょう」(アンナさん)

結果、アントンさんは侵攻開始からロシア軍が撤退するまでの5週間を変わらずこの部屋で過ごした。母親もアンナさんもアントンさんを置いて避難する選択肢は無かった。枕やクッションをアントンさんのベッドと窓の間に置いて、せめてもの破片除けにした。電力が途絶えたせいで、水道と暖房も止まった。3月はまだ氷点下になる日も多い。寒さに震えた。必要な薬などはボランティアが運んできてくれたという。

アントンさんは言葉にできなくても、戦闘の音に反応していた、とアンナさんは言う。

「私は、彼が怖がっているかどうか、顔を見ればわかります。明らかに怯えていました。」

アントンさんの体験を想像してみる。四角い部屋の中は何も変わらない。壁のポスターも、棚の上の観葉植物も、前のままだ。でも部屋の外では少し前まで平穏だった世界が急速に変質していった。砲撃音、銃撃音。人の気配がどんどん減っていく。窓から数十メートルのところに砲弾が落ちて破裂音と衝撃波が部屋を揺らす。人が死んだ。けが人が出た。軍用車両の音がする。ロシア兵の声が響く。住人たちの不安そうな話し声が聞こえる。それでも自分は身動きが取れない。どこへも行けない。自分のせいで母親も逃げられない。それはどんな気持ちだっただろうか。

アントンさんの息遣いが少し荒くなり、声を継続的に出すようになった。何か体調が悪いんでしょうか? そう聞くとアンナさんが苦笑しながら答えた。

「普段この部屋にいない人たちがいるので、それが不愉快なんだと思います」

そうですよね。
私たちもまた、アントンさんの日常への侵入者なのだった。


障碍のある子どもたちの「居場所」

戦争は日常をいとも簡単に歪めていく。対応していける人もいるが、肉体的・精神的にそれが難しい人達もいる。それは戦線のはるか後方でも変わらない。

侵攻開始から2週間ほどの3月上旬、ルーマニアとの国境に近い南西部の街チェルニウツィで、自閉症やダウン症の幼児を専門に預かる幼稚園を訪ねた。広々とした庭、古いがゆったりとした造りの園舎。食事や遊びをする部屋は三方に大きな窓があり、自然光がふんだんに入って開放的だ。こんなに広い幼稚園は初めて見ました、と言うと、園長のナタリアさんは「そうですか? ウクライナではどこもこんな感じですよ」とほほ笑んだ。

侵攻から1週間経った3月1日から教育当局の要請で閉鎖していたが、訪ねた日はちょうど再開した日だった。園庭では7~8人の子供たちがおもちゃの車を乗り回して遊んでいた。先生に抱き着いて離れない子もいる。ナタリアさんは数日前にハルキウの幼稚園が爆撃されたことに不安を覚えつつも、前線から遠く離れていることなどからリスクは低いと判断した。何よりも「子供たちのため」、そして「親からの要望」が再開の背中を押した。

自閉症の子たちは「生活のパターン」が壊されることを嫌う傾向が強い。市内には継続して開いていた幼稚園が12あり、市当局としては市内全ての園児をその12園に振り分ける方針だったが、ここの子たちは「いつもと違う幼稚園」に行くのはかなり困難が伴うのでその選択肢はなかった。一方で親たちは軍を支援するボランティア活動をしたり、普段通り働き続けたりしなければならず、園の再開を強く望んだ。

園に常駐する臨床心理士ヴァルティヴァさんに聞いてみる。

ーー子供たちは今、何が起きているか理解しているのでしょうか?

「この子たちは戦争のことは理解していません。でも、親たちが不安を感じていることは敏感に感じ取ります。私たちの役割は園を再開することで、子どもたちが不安を感じない環境を作ることだと思っています」

表情には使命感が滲んでいた。


戦争という狂気からなるべく遠ざけようと、職員たちは心を砕く

たとえ「安全地帯」であっても空襲警報は鳴る。一時閉鎖する前、警報が鳴り始めたころは子供たちに上着を着せて地下シェルターに連れて行ったというが、簡単ではなかった。

「なぜ行かなくちゃいけないかが分からないので、怖がっていましたし、ストレスに感じていました」

シェルターを見せてもらった。もとは子供たちが泥んこになったときに体を洗えるような地下室なのだろう、洗濯機とバスタブがあり、その横に児童用の椅子が並べられて、飲料水のタンクとテレビが置いてあった。明かり取りの窓にはテープが貼られている。

「本当は窓際に砂袋を置かないと行けないんですけど、できていません」ナタリアさんが少しばつが悪そうに言った。

もう警報が鳴っても子どもたちをシェルターに移動させないという。激しく嫌がる子がいる、という理由だけではない。チェルニウツィの街自体への空爆はこれまでないこともあって、市民もシェルターに入らなくなっていた。でもそれは日常の回復を全く意味しない。新しい日常が出現しただけだ。

明るい部屋での昼食を終えた子供たちは、二段ベッドが並ぶ部屋に連れられて行く。お昼寝の時間だ。差し込む光が柔らかい。穏やかな時間が流れている。日常のほんの少しの歪みにも強く反応する子たちを、戦争という狂気からなるべく遠ざけようと、職員たちは心を砕いている。

取材を終えて帰ろうとすると、ヴァルティヴァさんから「この子たちの状況に関心を持ってくれて有難う」と声をかけられた。

戒厳令の下、勇ましいスローガンが国中に溢れ、"強さ"が称揚されていても「社会的弱者」は存在する。国連によればウクライナには270万人の障碍者がいる。その多くは「穏やかな日常」に頼って暮らしてきた。その日常は今、変形し、場所によっては完全に崩壊している。

あの子たちが、せめて、怖い夢を見ませんように。

取材・執筆: TBSロンドン支局長 秌場聖治
撮影:宮田雄斗(ホストメリ) / 渡辺琢也(チェルニウツィ)

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