「バシリキーウ、ホーム、スイート、ホーム」。2023年11月3日、1年半ぶりに祖国の空気を吸ったマルタ・イバシェンコさん(22)は満面の笑みを浮かべた。
首都キーウ近郊バシリキーウに両親と暮らしていたマルタさんはロシアの軍事侵攻の3カ月後、母マリナさん(46)と日本に避難していた。マルタさんは脳性まひのため車いすの生活。慣れない異国の地でも前向きに暮らし、交流の輪をひろげた。それでも長引く戦争に望郷の念が募る。23年秋、母娘は父ブラディさん(47)が残る自宅に帰ることを決意した。【毎日新聞・和田大典】
侵攻が始まった2022年2月、ロシア軍が首都に迫り、故郷の街も攻撃をうけた。マルタさんたちは約200キロ離れた祖母の家に避難したが、空襲警報が毎日のように響いた。「もし何かあると、車いすのマルタは素早く避難できない」。恐怖のなかで過ごすのは限界だった。先に日本へ避難した知人たちを追うように2人もポーランドを経由して22年5月に来日、提供された静岡県御殿場市の市営住宅に身を寄せた。
雄大な富士山を望む新居で穏やかな避難生活を送ることができた。ただ侵攻後、大きな音に敏感になっていたマルタさんは、不意にドアが閉まる音や風船が割れる音などに反射的に身をこわばらせるようになっていた。「爆弾の音が怖かった。特に夜は怖かった。寝ているときだから、どうしていいかわからなくなる」。戦闘機が空を飛び、爆撃音に体が凍り付いた侵攻当初の恐怖が体に染みついているようだった。
一方、日本に来たことで実現したマルタさんの夢もある。車いすダンスだ。マルタさんが車いすダンスと出会ったのは約5年前。障害者の子どもたちが集まるキーウでのイベントに参加した際、年下の女の子が披露した車いすダンスを見た時だ。自宅周辺にダンスができる施設はなく「いつか自分も踊りたい」と思い続けていた。
日本でマルタさんたちの身元保証人になったのは四本信子さん(81)。四本さんは長年、車いすダンスの普及に努めてきた。ダンスを通じた知り合いの在日ウクライナ人家族から話を聞き、「車いすで日本に避難することはとても勇気のいること。自分にもできることがあれば」と2人の身元保証人になった。
東京で開かれるレッスンにマルタさんも通い始め、夢中になった。「くるくる回って、おもしろい。ダンスは障害のことを忘れさせてくれる」。
マルタさんは車いすダンス仲間とともに都内で開かれた社交ダンスパーティーで手話を交えた踊りを披露。広島では障害者スポーツなどを体験できる催しで、ウクライナの国旗の色の衣装をまとい平和への祈りを込めて舞った。「戦争が終わったら、車椅子ダンスができるところに連れて行ってほしい」。マルタさんは故郷に戻った後の新たな夢を抱いた。
2人の来日から半年ほどがたった冬、マリナさんはクリスマスに合わせて一時帰国することを考えた。「クリスマスを家族一緒に過ごしたい」。でもこのときは爆撃が続いており、まだ危険だと判断した。
ウクライナではロシア正教と同じ1月にクリスマスを祝うのが一般的だが、侵攻後は欧州諸国と同じ12月25日にあわせる人が増えた。マリナさんもこの日に車いすダンスの仲間を御殿場の家に招いて、手料理で「日本の家族」をもてなした。
23年1月、マルタさんの21歳の誕生日も東京で車いすダンスの仲間と祝った。「親としてマルタのためにはできる限りのことをしたい」といつも話していたマリナさんは、誕生会の後マルタさんを東京スカイツリーに連れて行き一緒に夜景を楽しんだ。「一生忘れられない思い出」になった。
親子は東京へ頻繁に通った。ダンスのレッスン以外にも、渋谷にあるメンタルケアを専門とする支援団体の施設「ひまわり」で他のウクライナ避難民と交流した。日本の女性が20歳の成人式に着物を着ることを知ったマルタさんは、ひまわりの支援者が開いたイベントで晴れ着を着て喜んだ。
前向きに避難生活を送っていた親子だが、1年を過ぎると日に日に、祖国への思いを募らせた。東部での戦闘が中心となり、バシリキーウの危険度は低くなったように思えた。父ブラディさんも「もう帰ってきてほしい」と電話の向こうでこぼすことが多くなっていた。
「日本での時間が長くなるにつれて表情が暗くなっていった印象でした」。そう振り返るのは住民と交流できる機会が増えればと、テニス施設の運営者が開く「地域食堂」を紹介した野田智代恵さん(62)。御殿場市国際交流協会のメンバーで、来日当初から親子を支えていた一人だ。
施設の勝又彩美さん(40)は「特技を生かして、生きがいを感じてほしかった」と手芸が得意なマリナさんに声をかけ、子どもたちにアクセサリーや人形作りなどを教える手芸教室を開いた。帰国前、最後の教室ではマリナさんと子どもたちは一緒に踊りを交えたゲームも楽しんだが、この時もマルタさんはうつむきがちだった。
マルタさんは母娘で過ごす中で「お父さん、(愛犬の)ラッキー、友だちに会いたい」と何度もこぼした。マリナさんが帰国を決めたのはそんな娘の気持ちも考えてのことだった。活発な親子だが、マルタさんが同年代の友人を作れる機会は少なかった。彼女が「同い年の友達がほしい」としきりに言っていたのを野田さんもよく覚えている。
「元気でね。また会おうね」。11月1日、御殿場の家から親子が成田空港に向かう朝、野田さんや勝又さんら約20人が見送った。「帰る日はマルタの顔つきがすごく明るかったね」。近所の勝俣由美子さん(51)は出発前日にマルタさん親子と家族を交え食事をした仲。正月も自宅に招いたり、温泉に行ったりして交流を深めた。出発後も「(経由地の)ポーランドに着きました」、「(バシリキーウの自宅に戻り)やっとスーツケースを開けます」などSNSを通してメッセージが届き、その後も連絡を取り合う一人だ。
スマートフォンに届いた家族写真や飼い犬「ラッキー」との笑顔を見ながら「戦争はまだ続いているけど、帰れてよかった」と感じる。将来旅行で行けるようになったら、マルタさんと年が近い大学生の娘とウクライナを訪ねたいと思っている。
マルタさん親子は空路で中東を経由しポーランドへ、そこから友人が運転する車で国境を越えた。父ブラディさんとの待ち合わせは西部の都市リビウのホテル。駐車場に着くと、ブラディさんは花束を手に2人を出迎え、何度もキスを交わした。
「ハッピー、ハッピー、また一緒になれた」とマリナさん。ブラディさんも「とても幸せ。長い間1人の生活で、とてもしんどかった。やっと家で一緒にクリスマスを過ごせます。新年も一緒に」と笑った。3人は翌日、バシリキーウの自宅に向かって出発した。
リビウではこの日も空襲警報が鳴り響いていたが、シェルターに向かって走り出す人は少ない。現地の人は「慣れてしまった部分はある。戦闘が続く東部はもちろん、ミサイル攻撃が多いキーウやオデッサは緊張感が違う」と話した。マルタさんも、時々キーウなどで爆撃がある状況を「ちょっと心配」と日本語で語っていた。
我が家で聖夜を家族と過ごす――。23年のクリスマスは一年越しの願いがかなった。マリナさんはウクライナの伝統料理を作ってこの日を迎え、友人たちも家を訪ね賑やかに過ごすことができた。
しかし、マルタさんが22歳になる誕生日の1月23日は、不安とともに目覚めることになった。首都キーウにロシアのミサイル攻撃があったのだ。自宅周辺に被害はなかったが、朝から爆音が空にとどろいた。帰国してから三度目の、身をこわばらせる音だった。
その日、マルタさんは両親から誕生日祝いの花束をもらった。同年代の友人も自宅にお祝いに来てくれたが、戦時下では「誕生日の特別さが薄れる」と感じる。「『心配』と言わなくていい日が早く来てほしい」。そう思いながら過ごす日々が続いている。
毎日新聞・和田大典
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