ウクライナでプロサッカー選手になることを夢見た21歳の青年の日常は、ロシアの侵攻で壊れた。「戦争のない国」として避難先に選んだ日本だったが、そこでJリーガーという新たな目標を見つけた。「どこにいても自分次第」。いつの日か、ワールドカップ(W杯)のウクライナ代表として祖国に戻る日を夢見て、社会人チームの一員としてピッチに立っている。(取材・文:毎日新聞 真田祐里)
「ダニー、ゴー!」「ダニー、ゴー!」
1月中旬、関東の社会人サッカーチームが参加する大会が開かれた千葉県市川市のサッカー場。仲間の声を受け、千葉県社会人リーグ1部・市川サッカークラブ(SC)のダニール・コブザールさん(21)が中盤から前線にパスを送った。
チームで1、2を争う豊富な運動量と長い手足を生かしたキープ力、正確なパスで攻撃の起点となる攻撃的MF。攻守両面での貢献度の高さは南里雅也監督も「チームの中心選手。全試合レギュラーです」と認めるほどだ。悲願のJリーグ入りを目指すチームにとって、なくてはならない存在となっている。
7カ月前はウクライナの首都・キーウ(キエフ)でボールを蹴っていた。家の近くでは時折爆撃音が聞こえた。「最初は本当に怖いと思った日もあったが、もう慣れてしまった」。スーパーの商品棚は日に日に品数が減っていった。所属していたセミプロのチームの練習も、通っていた大学の授業もなくなった。「何もすることがなくて退屈だった。早く戦争が終わってほしいと願いながら過ごしていた」
それでも、サッカーはやめなかった。自宅アパート近くの狭い路地で友人数人とボールを蹴った。「サッカーをしている時が唯一、戦争のことを忘れられる」からだ。思い出すのはかつての平和な日常だった。
幼いころはウクライナ東部のドネツクで過ごした。住んでいたアパートの近くにストリートサッカーのできる場所があり、4歳ごろから自然とボールを蹴り始めた。8歳で強豪クラブチーム「シャフタール・ドネツク」の下部組織のトライアウトに合格した。
学校とサッカー場を往復する日常に戦争の影が忍び寄ってきたのは2014年3月。ウクライナ南部のクリミア半島が、ロシアに一方的に編入された。まだ自由に往来できていたクリミアで、家族みんなでバカンスを楽しんでいた同年7月、母インナさん(46)が突然「家には帰れない」と告げた。
ドネツク州でも紛争が悪化し、現地の知人から「戻ってこない方がいい」と言われたという。ダニールさんは「バカンスに行く前からいくつか事件が起きていたけど、そんな大変な状況になるとは思わなかった」と話す。警察官だった父アレクセイさん(46)はマリウポリに召集され、ロシア軍との戦闘に加わった。ダニールさんたちは、クリミアの祖父母宅に避難した。
秋になると、所属クラブが練習拠点をキーウに移した。サッカーを続けるため単身でキーウにある寮に入った。何も知らない土地での生活は苦労が絶えなかった。「新しい人生の始まりのようなものだった。とても大変で、ドネツクの家に帰りたいと何度も思った」 その後、母や弟、父もキーウに移り住んできた。ロシアとの関係悪化で、しばらくはドネツクに戻れないと分かった。
「ドネツクには良い思い出がたくさんある。学校が変わり、友人とも離れた。全てのものを家に残してきた。もう帰れないと分かり、すごく悲しかった」。故郷を失うつらさを初めて味わった。「当時は、幼かったので全ての状況を理解していなかった。バカンスが終わったらすぐに家に戻るつもりが、あれから9年たった」
2022年2月24日に始まったロシアの侵攻で、「第二の故郷」となったキーウも攻撃にさらされた。セミプロのチームに移籍し、プロ選手を目指していた。前日までは練習漬けの日常だった。翌朝、目が覚めると母親から「戦争が始まった」と言われた。爆撃音は定期的に窓の外から聞こえ、日ごとに回数は増えた。
夜はアパートの地下駐車場で眠り、日中は爆撃音が聞こえるたびに地下に走って逃げた。サッカーどころではなくなった。インナさんは「最初は(戦争が始まったことが)信じられなかったが、1週間もすると、これは本当の戦争なんだということが分かってきた」と振り返る。
3月上旬、インナさんと弟イバンさん(15)が先に隣国のポーランドへ出国し、その後チェコに渡った。避難民向けのシェルターで過ごした後、日本に避難したのは6月だった。一度も訪れたことはなかったが、両親が「戦争のない一番安全な国」と考えて選んだ。神戸に避難しているアレクセイさんの知人から勧められたことも後押しした。
ダニールさんは父とキーウに残った。しかし、キーウで早期に日常を取り戻すことは難しいと判断し、日本行きを決意した。7月上旬にウクライナを出国し、数カ国を経由して、下旬に日本にたどり着いた。
日本でサッカーをする環境を探してくれたのは、ホッケーコーチの黒川太郎さん(51)だ。アレクセイさんが先に日本に来ていたイバンさんにアイスホッケーチームを紹介してもらえるようSNSを通じて連絡をとった縁で、黒川さんはダニールさん一家を支援していた。黒川さんが知人を通じて市川SCのゼネラルマネジャー(GM)に依頼し、8月に入団が決まったという。
久しぶりの試合は入団3日後の8月21日、木更津市で行われた県社会人サッカーリーグの公式戦だった。先発出場したダニールさんは先制ゴールを決め、チームメートと喜びを分かち合った。「また試合に出られるなんて想像していなかった。うれしかった。自分の人生の中でサッカーがないというのは悲しいことだった。またサッカーをする機会を与えてくれたチームに感謝している」と話す。
今は、黒川さんの支援を受けながら、家族4人で東京都葛飾区の都営住宅で暮らしている。日常生活も当初は困難続きだった。病院に行けば「英語で対応できないから」と断られることもあり、問診票を書くのも一苦労だった。病院や銀行などに初めて行くときは黒川さんが付いてきてくれた。黒川さんはクリスマスも大みそかも一緒に過ごした。ダニールさんが「とても大切な人。家族の一員」という存在だ。
日本に来てから、通っていたキーウの大学のオンライン授業も始まった。半年後には卒業できる見通しだ。イバンさんは外国にルーツを持つ子どもたちが通うスクールに通いながら、近所の公立中学校への通学を目指している。アレクセイさんは日本の運転免許を取得し、ショッピングモールで棚卸しなどのアルバイトを始めた。インナさんも侵攻前から日本に住むウクライナ人美容師の仕事を手伝っている。アレクセイさんは「戦争はちょっとやそっとじゃ終わらない。キーウではまだ爆弾が飛び交っている。日本での生活は言葉以外は問題ない」とたくましく笑う。
ダニールさんは今もウクライナに残る友人と連絡は取っている。ただ、耳に届くのは電気がつかない、爆弾が落ちたという話ばかりで、「いい話は一つもない」という。ドネツク州に住む父方の祖父母とも毎日5分ほど、テレビ電話をしている。警察官としてロシア軍と戦ったアレクセイさんが、ロシア側のブラックリストに名前が載ったため、4~5年前から会えていない。侵攻や政治の話はせず、お互いに顔を見て何の変哲もない雑談をするだけだが、「家族にとって大切な時間だ」と話す。
侵攻から1年がたっても、侵攻が収束する気配はない。それでもダニールさんは「新しい地で一からやり直すのは2回目なので慣れた」と気丈に振る舞う。それも、サッカーに向き合える時間があるからかもしれない。
今の目標は「Jリーガーになること」だ。チームは本格的にJリーグ入りを目指すため、2月から練習量を増やした。チームメートとは、英語や勉強中の日本語を交えて仲を深めている。ウクライナにいたときと環境は違うが、夢をかなえられるかは「どこにいても自分次第」だと考えている。
Jリーガーになれたら、次の夢はW杯出場だ。「時間はかかると思うけど、いつか自分も出場したい。もちろんウクライナ代表として」。その時、侵攻は終結しているだろうか。
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