ロシアによるウクライナ侵攻は2月で1年を迎えるが、いまだに戦闘が収束する兆しは見えない。ウクライナ人の女性は、11歳の娘と横浜で避難生活を送っている。来日の3日後、ウクライナに残った元夫が銃殺されたことを知った。娘は2日間泣き続けた。「いつかはお墓に行きたい」。幼いころから憧れていたという日本で、遠い故郷に帰る日を夢見ている。
2023年1月中旬。横浜市内にある市営住宅の一室を訪れると、ウクライナから避難してきたタマラ・バルビンスカさん(45)は記者を前に、日本語で切実な表情を浮かべて訴えかけた。
「日本の生活に慣れてきて、ちょっと落ち着いてきました。でも、前よりも、もっともっとウクライナに帰りたくなってきた。ウクライナに一人で残っているお母さんに会いたい。一緒に過ごしてきた友達に会いたい。みんなに会いたい。でも、日本のみなさんに本当に助けてもらって今は娘と一緒に暮らせているので、まだ帰るのは難しい。戦争が始まる前の普通の生活に戻りたいけど、戦争は始まると簡単には終わらないし、終わらせることはできない」
22年3月下旬にウクライナから避難して来日。しばらく横浜市内にいる知人宅に身を寄せた後、6月上旬から市営住宅で一人娘のマリアさん(11)と2人暮らしを始めた。自治会の支援を受けながら、平日の週4日間は自宅近くのディスカウントストアで働く。自治会が寄付してくれた自転車に乗って午前9時に出勤し、商品棚の整理やレジ打ちなどをこなし、午後2時まで勤務する。仕事が終われば、自宅に戻ってマリアさんと過ごす日々だ。
タマラさんは中部のチェルカーシ出身。首都キーウから南に約180kmの距離に位置するドニエプロ川沿いの都市だ。避難前は国立大学で心理学者として精力的に働く傍ら、シングルマザーとして子育てにも奮闘してきた。「朝ご飯を食べて、マリアを学校に送り、大好きな仕事をして、夕方になれば料理して家族と過ごしていました」。多忙な日々の中で、自らの心を癒やしてくれたのが大好きな日本語の勉強だったという。
「20年ぐらい前、横浜に住むウクライナ出身の友人を訪ねるために日本に旅行しました。小さい頃から日本の美しい自然や街の風景などが大好きでしたが、実際に来て、もっと大好きになりました。富士山、鎌倉、日光、京都......。行きたいところがたくさんあります」
日本語の勉強はすべて独学。空き時間を見つけてはインターネットで調べて、ひらがな、カタカナの読み書きを学び、発音は日本語の動画サイトを見て学んだという。「私は勉強が好きだから、簡単だった」。
だが、そんな充実した生活はロシアによるウクライナ侵攻で一変する。暮らしていたチェルカーシでも昼夜を問わず警報が鳴りやまない日々が続き、刻一刻と「戦争」という2文字が迫ってきていた。タマラさんはこれまでウクライナだけでなく、欧州諸国などさまざまな国に出向いて仕事を行っていたが、それも侵攻をきっかけに難しくなった。
「とにかく命を守るためには、子供と一緒に最も安全な場所に行かなければならない」。日本なら言葉も理解できるうえに、何よりも過去に来日した経験から生まれる安心感もあった。タマラさんは日本に住むウクライナ人の友人のつてを頼って、マリアさんを連れて日本に避難をすることを決断した。近隣に住んでいた自身の母(67)はウクライナでの生活を選んだという。
22年3月19日午前7時。タマラさんは娘と2人で自宅を出て、友人の車でポーランドの国境へと向かった。道中、恐怖心から車の外はあえて見ないようにしていたが、それでも国を守ろうとするたくさんのウクライナ兵の姿が見えたという。
既に陽が暮れた午後8時ごろ、国境を越えた。迎えに来てもらったポーランド人の友人が運転する車に乗り換え、首都ワルシャワに着いたころには、午前0時を迎えていた。完全に夜は更けていた。その後、友人宅に身を寄せながら、出国の手続きを整え、ワルシャワ発、成田着の直行便で3月26日に来日。成田空港からバスに乗り、横浜市にようやくたどり着いた。
「1日でも遅れていたら日本に来ることができなかったかもしれない。ぎりぎりで2人分のチケットが取れたのです。飛行機に乗っている時は、心の中で『これからどうなるの、どうしたらいいの』という思いで胸がいっぱいになり、とても不安でした」
来日して3日後。衝撃的なニュースがもたらされた。それは、首都キーウ郊外のイルピンで暮らしていた元夫のエフゲニー・カルロフさん(44)がロシア兵に殺害されたという、信じられないような報告だった。
離婚後も連絡を取り合っていた元義母から電話で連絡が入ったという。
「亡くなったと聞いた時から何日もずっと涙が止まりませんでした......。私がそんな状態でしたから、娘にも言えずしばらくどうしていいか分かりませんでした」。
エフゲニーさんは、戦闘から逃れるため地下に避難していたが、街に侵攻してきたロシア軍に抗議しようと外に出た際、ロシア軍に連行されたのだ。そのまま戻ることはなく、後頭部を撃たれた状態で見つかったという。タマラさんとエフゲニーさんはマリアさんの出産後に離婚し別々に暮らしていたが、父娘は定期的に会い、仲が良かったという。タマラさんは涙をこらえながら振り返る。
「マリアに言えない間は、ずっとモヤモヤしていた。3カ月後の6月29日にようやく告げると、娘は2日間ずっと泣いていました」
小学5年生のマリアさんは現在も日本の学校には通わずに、自宅でチェルカーシの小学校の授業をオンラインで受けている。平日の日本時間午後3時半(現地午前8時半)から授業が始まり、午後9時(現地午後2時)に終了。タマラさんによると、チェルカーシでは母国で暮らす生徒も含め全員がオンラインで授業を受ける態勢が取られている。しかし、ウクライナ全土は現在、深刻な電力不足に陥っているため、停電によって授業に出られない子どもたちが続出しているという。
最愛の父を失い、故郷にも戻れない日々の中で、マリアさんにとっての唯一の心の救いが小学校の友達と一緒に受ける授業だという。「早く友達に会いたい。早く帰りたい」。マリアさんは、口癖のようにそうつぶやく。母は来日直後、娘を日本の学校に通わせようと考えたが、故郷への帰還を願う娘の気持ちを考えると、オンライン授業を遮断することはどうしてもできなかったという。
「私は心理学者だから、本当は日本でもそういう仕事がしたいし、もっと勉強もしたい。でも、なるべく娘と一緒にいる時間を大切にしたい。だから、自宅からすぐ行けるディスカウントストアで働いているのです。仕事が終わったらすぐに家に帰って娘と一緒に過ごすことができます。娘は日本の学校に通っていないし、日本語も話せないので今は話し相手もいない。だから、休日にはなるべく一緒にいろんな場所に行くようにしています。昨年のクリスマスも湯河原に行きました」
2人の生活の支えになっているのは、常に自らを励まし相談相手になってくれている横浜の人々だ。22年9月には、市営住宅に住むウクライナ人3家族を励まそうと、自治会や商店会が懇親会を開いてくれた。浴衣の着付け体験を行った後、商店会が料理を持ち寄り、白ワインを飲んで盛り上がった。少しでも日本の生活になじめるようにと、自治会が住民に定期的に呼びかけ、生活必需品も届けてくれているという。
「日本はきれいで食べ物がおいしいし、人が優しい。分からないことがあれば、いつも自治会に聞いていて、とても助かっています。本当にありがとうと横浜の人たちに伝えたいです」
そう感謝の気持ちを示すタマラさんに対し、世話役を買って出た自治会の井上恵子さん(70)は「私たちとしては、タマラやマリアたちにとにかく普通の日常を送ってもらいたいと思って日々、接しています。あんまり気を遣いすぎても迷惑だろうから、他の住民の皆さんと同じようにイベントにも参加してもらえたらなと思っています」と寄り添う理由を説明した。
タマラさんは自身の祖父母のうち2人はロシア人で、そのルーツに誇りを持ってきた。それだけに「ウクライナ人とロシア人は戦争をしないと信じてきた。だってシスター、ブラザーだから。いまだに戦争が起きたことは信じられない」と話す。
日本への感謝、元夫を亡くした喪失感、望郷の念。そんな複雑な思いを抱えながらの日本での生活も、この春で1年を迎えようとしている。砲撃や銃弾におびえる必要もなく、生活にも慣れてきた。ただ、いつかはウクライナに戻りたいと願う。
「母もウクライナに残っている。娘のクラスメートもたくさんいる。5月、6月あたりには戻れるといいなと思っている。戻ったら、もちろん娘と一緒に元夫のお墓にも行きたい」
再び祖国で暮らすことを切実に願いながら「大好きな日本」で過ごす矛盾のような日々はいつまで続くのだろうか。
取材・文:毎日新聞横浜支局 鈴木悟
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