「今は安全であることが最も重要」。息子の未来のため、母親は日本に避難することを決めました。故郷に残した両親は、大晦日にミサイル攻撃を受けました。母子が選んだ場所は、熊本にある小さな田舎町です。人口約5200人の玉東町は、4世帯13人のウクライナ避難民を受け入れています。「いつかウクライナの支援活動がしたい」。平和を祈り、母子は自立のために歩み出しています。(取材・文:KKT熊本県民テレビ 藤木紫苑)
アンナさん(仮名・30代)と息子のジョンさん(仮名・10代)は、熊本・玉東町で暮らしています。長期化する軍事侵攻に危機を感じ、町の避難民受け入れの専用サイトを見て2022年10月にウクライナ西部の町から玉東町に避難してきました。縁のなかった日本に暮らすことは想像もしていなかったと話します。
「日本を選んだのは第一に安全な国であること、そして美しさ、人の親切さ、経済が発展していることが理由です。玉東町は、海が近く自然が豊かだと思ったので来たいと思いました。実際に玉東町に来てからは、町のことがとても好きになりました。町の人はやさしく親切で、わたしたちがウクライナに残る親せきを心配しているときには気にかけて、優しい言葉をかけてくれます」
玉東町で暮らし始めて3か月経ち町の人たちのあたたかさにも触れました。しかし安全な日本での暮らしの中でも、終わりの見えない戦況に不安な日々が続いています。アンナさんの両親は今もウクライナに残っています。
「今はウクライナのどこにいても安全ではありません。両親は日本時間の昨年の大晦日にミサイル攻撃を受けました。母はとてもショックを受けていたので、近所の人が落ち着かせてくれたと聞いています。ただ、年配の世代にとって町、国を離れるのは簡単なことではないです」
アンナさんが両親を故郷に残す不安を抱えながら日本への避難を選んだのは、息子の将来を考える必要があったからです。「今は安全であることが最も重要なこと」と語るアンナさんの言葉に、一般市民が戦争により安全な生活を奪われることの悲しみが込められていました。
玉東町は人口約5200人の九州の小さな田舎町ですが、2022年8月に1世帯目の家族を受け入れて以来、2023年2月までに4世帯13人のウクライナ避難民を受け入れました。全国的にも例の少ない自治体が主導する受け入れ支援に取り組み始めたのは、町長の一声がきっかけでした。
玉東町 前田移津行町長
「テレビでウクライナの状況を見ると、やっぱりできるだけのことはやらないといけないと思った。職員に国際協力機構(JICA)で2年間アフリカに出向した経験がある人がいたので受け入れができないかという相談をした。小さな町だからできることはあると思う」
受け入れを主導したのは、玉東町役場職員の渡邉拓人さんです。国際協力機構(JICA)のメンバーとしてアフリカに出向した経験があります。2022年5月、町長からの声かけを受けてすぐに準備に取り掛かりました。
「まずウクライナ語を話せる人がいなかったし、制度もない。募集の仕方や玉東町にたどり着くルートはどうするか。ひとつひとつ設計することから始まりました」
町と共同でウクライナ避難民の受け入れに取り組んだ、隣の玉名市のNPO法人れんげ国際ボランティア会の本田佳織さんは、日本語教育の準備に苦労したと話します。
「東京のように日本語学校はないし、玉東町から熊本市内の日本語学校に通うのも遠い。どうやって先生を募集してクラスを組み立てていけばいいのか、何回も打ち合わせを重ねました」
必要な資金は国や日本財団の助成金とクラウドファンディングを活用し、避難民を募るホームページは独自で立ち上げました。課題だったのは、子どもの避難者の学校です。渡邉さんは各教育機関に足を運んで交渉しました。
「学校側が門前払いだったらどうしようという不安もありました。教師の数が限られていて対応が行き届かないのではないか、という懸念もありましたが、最終的には公立学校が受け入れに協力してくれました」
避難民の居住先には、町営住宅の空き部屋を活用しました。同じ団地に住んでもらうことで、避難民同士のコミュニティーもできました。生活の中での不安なことや困りごとは、SNSのグループ機能で連絡を取りあえるようにしました。
プロジェクト開始から約9か月、今も就労支援や生活の細かなサポートなどを続けています。町民から「ウクライナ語の翻訳アプリをダウンロードした」「ジャガイモが採れたから避難民に食べてほしい」と温かい声が届くこともありました。こうして、小さな町だからこそできる支援の輪が広がっています。
アンナさんは自立を目指して日本語学習と週に3回程度の仕事を両立し、息子のジョンさんは中学に通っています。
取材した日、アンナさんはハンバーグの仕込み作業をしていました。同僚が身振り手振りで指導し、アンナさんは「大丈夫ですか?」とわかる日本語で確認しながら作業を進めます。同僚は「笑顔がすごく素敵で、ニコニコして働いてくれています」といい、アンナさんも「料理が好きで、いまの仕事は楽しい」と話してくれました。
ジョンさんは侵攻前から日本に興味があり、ウクライナで少しだけ日本語を習っていました。
「日本はとてもクールな国だと思っていました。マンガも好きで日本の全部が好きです。特に日本のドラマにハマっています。ウクライナにいたときもインターネットを通して見ていました」
授業はほとんどの科目で他の生徒たちと一緒に受けています。わからない日本語も多いですが、いつもクラスメイトが教科書にふりがなをつけたり、翻訳機で説明をしたりしてくれるといいます。
担任の先生
「入学時にやさしい日本語を使って話しましょうということになった。生徒たちも『あつい』『さむい』など簡単な日本語で会話をしています。ジョンさんは、来てくれた当初よりは翻訳ツールなどを使わなくても話ができる機会が増えたと思います。生徒たちはお互いに刺激をもらいながら生活していると思う」
クラスメイト
「ジョンさんは自分が言ったことに反応してくれて笑ってくれて、やさしくておおらかです。不安な気持ちでこっちに来たので、これからもっともっといっぱい話して、少しでも楽しいと思ってくれるようにしたい」
最初は生徒たちにも戸惑いがあったといいますが、今では友達と英単語を使いながら話し、笑顔を見せることも増えました。
避難民受け入れプロジェクトのメンバーの本田さんは、日本語の学習が重要な課題だと話します。
「日本語が話せることで自立につながり、日常生活に必要なコミュニケーションや情報がとれるようになると思います。今後はそのサポートを頑張っていきたい。1日でも早く彼らが住みたい場所で生活できる日がやってきたらいいなと思います」
玉東町ではジョンさん以外にも、避難民の子どもたちが学校に通っています。今はウクライナの学校に在籍を残しながら日本の学校に通っていますが、今後の進学先は日本の学校でいいのか、玉東町からインターナショナルスクールのような学校に通うことは可能なのか、長期的な滞在に移行していく中で見えてくる課題もあります。
玉東町役場の渡邉さんは短期で終わらせず長期的な支援こそが大切だと意気込みます。「JICAでの経験で外国に暮らす大変さも人々のあたたかさも知った。ウクライナの方と町民が一緒に共生する多様性のある世界にしていけたら」と覚悟を語りました。
ウクライナ侵攻から1年。日本で暮らすことが少しずつ日常になったとしても、いまも故郷を案じる日々が続いています。アンナさんは、自立して収入を得られるようになったらウクライナのための支援活動がしたいと思いを口にしました。今、一番に望むのは「ウクライナでの戦争が終わること」。そして「今はすべてのウクライナ人の思いは同じです」と訴えるように続けました。
望まない争いに翻弄され、ウクライナから遠く離れた日本にやってきた避難民。いつか"避難"という段階から区切りを迎えたとき、心からの平和が訪れてほしいと願わずにはいられません。
取材・文:KKT熊本県民テレビ 藤木紫苑
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