ウクライナと日本にルーツを持つ13歳の少年は、軍事侵攻の直前にリュックひとつで日本に避難してきました。「自分の周りのロシア人は悪い人ではないから」。戦闘が始まるとは信じられず、冬休みのつもりで熊本に来ました。のちに、家族が避難のために使っていた空港も攻撃を受けたことがわかります。まさに間一髪の避難でした。あれから1年、少年は家族や友人との再会を願っています。(取材・文:KKT熊本県民テレビ 藤木紫苑)
熊本市に暮らす、中学1年生の津地佑星さん(13)は、日本の人の父・秀隆さんとウクライナ人の母・バレリアさん、そして兄の佑輔さん(17)と4人家族。熊本に生まれ、5歳ごろからは仕事や介護の都合でウクライナに生活を移した母と共に東部・ドニプロで暮らしていました。ところが2022年2月、思ってもみない知らせが父・秀隆さんの元に届きます。
「ウクライナの日本大使館から自分のところに連絡が来ました。"ロシア軍が怪しい行動をとっている"と。半信半疑でした。ウクライナの現地の人はそんなことないと言っているから」
ウクライナの日本大使館に「何かが起こってからではウクライナまでの飛行機が飛ばなくなる」と家族を避難させるよう促されました。父・秀隆さんは、実感を持てないまま2022年2月17日、日本を出発。大使館関係者の協力を得て隣国・ポーランドのワルシャワ空港で佑星さん(当時12歳)と、バレリアさんと落ち合います。そして、父と息子は日本へ、母は家族を残していけないとウクライナに戻りました。
親子が日本に到着したのは2月20日(日本時間)、そしてその4日後、恐れていたロシアによる軍事侵攻が始まってしまいました。後に、家族が避難のために使っていた空港も攻撃を受けたことがわかり、まさに間一髪のところで攻撃を逃れました。
ロシアとウクライナの間で戦闘が始まるなど全く信じていなかったという佑星さんは、侵攻開始直後の去年3月上旬、このように語っています。
「パパは戦争が始まると言っていたんですけど、信じていなかったです。戦争なんて始まらないと思っていた。日本に来るためポーランドに着いたときは、大使館の人が笑っていなくて緊張しました。自分の周りのロシア人は悪い人ではないから、ウクライナ人は攻撃にびっくりしたと思います。日本に出発する前には2、3か月くらいの滞在だと思っていたので、ウクライナの友達からは『お土産を買ってきて』などと言われていました。でも今は友達は『泣いている』とか、『心配している』と言っています」
母・バレリアさんは佑星さんを日本に送り出したあと、ウクライナにいる父親のもとに戻りました。ドニプロでは、サイレンが鳴る度に地下室に避難する日々。佑星さんは日に日に悪化する戦況をニュースで見ながら、残してきた人たちを心配する日々が続きました。電波が通じないこともあるため、佑星さんは電波が通じている時間帯に日本で得た情報をビデオ電話でできるだけ母に伝えました。
ロシアとの国境からほど近く、攻撃の標的となったハルキウには親戚も住んでいました。親戚は避難したいと思いつつも高齢の親の世話や住み慣れた家を守りたいという気持ちから、ハルキウを離れられずにいました。
ウクライナで通っていた水泳クラブの友達は、避難してバラバラになってしまいました。佑星さんはウクライナに残る家族や友人の安否をSNSで確認したり、平和を願ったメッセージなどを送ったりしてみんなを励ましました。
春からは熊本の中学校に通い始めた佑星さん。もともと日本語は話せましたが、漢字の読み書きはまだ難しいといいます。最近では丁寧語の使い方がわかってきて、先輩や友達とも話しやすくなりました。
母・バレリアさんは、ポーランドに一時避難した後、日本に来ることができました。今は仕事の都合で離れて生活していますが、月に1度ほど家族で会えています。安否を気にせずに笑い合える喜びをかみしめています。
佑星さんは日本に来ていち早く水泳を再開させました。今は全国トップレベルの選手を輩出する水泳クラブで、年上の生徒たちと共に毎日練習に励んでいます。この練習の時間が、佑星さんの楽しみになっているといいます。
「日本に来てから最初に行ったのは、学校じゃなくて水泳でした。水泳についての会話もしやすいので、どんどん友達ができました。スポーツやっていて良かったなと思いました」
日本での生活を笑顔で語っていましたが、将来の夢について尋ねると戸惑う様子を見せ、心の内にしまっていた思いを話してくれました。
「ちょっとあんまり将来の夢を考えていなかったです。やっぱりいつ何が起こるか分からないので、明日のことさえも考えられなくなるから。できるだけ一番近くてあまり難しくない目標を立てています。テストでいい点数取るとか、ここを頑張ろうとか...。明日の目標を立てられるようになったのも、最近かもしれないです。将来の夢はわかりません」
高校2年生の兄・佑輔さん(17)もまた、4年ほど前までウクライナで生活していました。進学のため一足早く日本に来ていたため、佑星さんにとっては心強い存在です。
佑輔さんは親しかった先輩に19歳や20歳の世代が多かったため、戦地に行った人も多いと聞いたと話します。最近も仲の良かった友人から自分の誕生日を祝うメッセージが届きましたが、「家の近くは戦車が通っている」という知らせが届き、安否を気にかける日々を送っています。
「誕生日に仲の良かったウクライナの友達からおめでとうの連絡があって。友達も苦しいと思うんですけど、笑顔を作って自分を祝ってくれたので心にぐっときました」
ウクライナと日本の両方を知る佑輔さんは、平和に対する意識の違いを感じていました。
「日本の友達とはもう明るくできるだけ陽気に話したりしている。あんまりウクライナの話題とかを話したりはしません。聞かれたら心配させないためにも一応大丈夫。OKって言っているんですけど...。日本はめっちゃ平和です。もっと平和は当たり前じゃないぞと思ってもらいたいです」
このインタビューを行った数日後には、兄弟が暮らしたドニプロ近郊に対する攻撃で多くの市民が犠牲になりました。攻撃は兄が通っていた学校のすぐ近くでした。そしてこの犠牲に対し、ロシア国内からも追悼の動きがあったことが報じられています。
佑星さん
「ロシア人が戦争を始めたと世界は言っていますが、ロシア人ひとり一人が戦争したいと言って始めた訳ではないですから。やっぱりロシア人でもいい人は多いと思いますから。ロシア人全員が悪いわけではないと思います」
佑輔さん
「ウクライナにいるときはロシア人の友達もいました。ソビエト連邦共和国でもともと同じ国なので文化も似ていて、国の名前が違うだけで、人も考えも全く同じだった。ロシアとウクライナが戦争するのは本当に謎で、何でするんだろうって。これがきっかけで次の世界大戦が始まったらもう取り返しがつかないので...。そこはちょっと心配です」
銃を使い、争いで勝ち負けを決める戦争の歴史を今もなお繰り返している。戦争以外の方法をみつけることはできないのか疑問を持ち続けています。
佑星さん
「これまでも戦争がこの地球であったけど、やっぱり何年も続いている。今回もすぐに終わると思っていたんですけど、ウクライナの教科書には戦争は5年続くと書いてありました。どれだけの人が死ぬのかと思うと、できるだけ早く戦争を止めたほうがいいと思いました。今の時代でもやっぱりコミュニケーションがとれていないと思う。できるだけ早く戦いなしで、話し合いで解決することが大事だと思います」
侵攻から1年がたち、父・秀隆さんは「戦争が日常化してきたことに危機感を持っている」と話します。知人のSNSでは、ミサイルが飛んでいるなかで出掛けてきたなどの投稿が目につくようになり、長引く戦争に大きな不安を感じるようになりました。
この1年、明日を生きることで希望を見いだして来た佑星さん。戦争が続く今、遠い日本で暮らしていても心に刻まれた傷が癒えることはありません。「誰もが望まない戦争が、1日でも早く終わってほしい」、少年の願いが届く日はいつになるのでしょうか。
取材・文:KKT熊本県民テレビ 藤木紫苑
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