キーウに住んでいた姉妹は、突然日常を奪われました。空襲警報が鳴り響き、浴槽に敷いた布団で震えながら過ごす日々。医師の母は今も負傷した兵士の治療やメンタルケアにあたっています。9月末、姉妹は母を残して広島に避難してきました。78年前に原爆で廃墟と化し、そこから復興したまちです。お好み焼き体験施設で働き、「第二の家族」を見つけました。姉妹は鉄板を前に、ふるさとの平和を願います。(制作:広島テレビ放送 金丸真帆)
広島市西区のソースメーカー「オタフクソース」に、お好み焼きづくりを体験できる施設があります。鉄板の前に立つのは、ウクライナから避難してきた姉のファジリャ・ボロジナさん・20歳と、妹のマリアさん・18歳です。広島のお好み焼きは「重ね焼き」。難しかったクレープ状の薄い生地も、上手に焼けるようになりました。
ファジリャさん
「最初は難しかったけれど、毎日焼くうちに慣れてきました」
日本の支援プロジェクト「The Path to Peace」を利用し、2022年9月26日にキーウから来日しました。その協力者の紹介で、オタフクソースに就職。2人は同社の「お好み焼館体験スタジオ」で、調理を体験しに来たお客の道具や具材を準備するアシスタントとして働いています。
姉妹の家族は、今もウクライナにいます。2人はウクライナ南部に位置するクリミア半島で生まれ育ちました。ロシアとウクライナの政治的な争いが長年続いてきた土地です。
2014年にロシアがクリミアを併合。その後、医師でシングルマザーのエディヤさんの仕事の都合で姉妹はともにウクライナのキーウに移住しました。祖父母や親戚、友人たちは今もクリミアに大勢いますが、しばらく会うことができていません。
ファジリャさん
「クリミアとウクライナを行き来するのは難しくなってしまいました。家族に会いたいです」
キーウの大学や高校に通い、友達も増えてきました。しかし2022年の2月24日、ファジリャさんがいつものように大学の友達と遊びに出かけようとしていた朝、突然戦争が始まったのです。
ファジリャさん
「多くの男性がウクライナ軍に入隊して戦争に行き、多くの人がウクライナの兵士のために献血をしに行っていました」
最初は実感がわかなかった「戦争」という状況。しかし、周囲の人々の変化で、ただごとではないと感じ取りました。そして侵攻から1週間後、姉妹が住んでいるキーウのテレビ塔が砲撃されました。
マリアさん
「見慣れた街が壊されていくことが恐ろしかったです。自宅から500メートルほどのところにある軍事ユニットには、大勢の兵士が集まり、攻撃に備えていました」
ファジリャさん家族は、自宅の浴室をシェルター代わりに過ごしていました。家の奥にあり窓からも遠いため、家の中ではもっとも安全な場所でした。しかし、連日空襲警報が鳴り響き、浴槽の中に敷いた布団で震えながら過ごしました。
医師の仕事が忙しく家を空けることが多い母のエディヤさんは、娘たちだけでも戦場から遠ざけることを選びました。頼ったのは、日本に住む友人の紹介で知った支援プロジェクト。ビザや航空券・住居などを手配してくれるものでした。
マリアさん
「私たちは遠い日本のことを何も知らず、最初は避難を受け入れられませんでしたが、ママが『大丈夫』と言ったので信じました。でも別れるのが悲しかったです」
ファジリャさんは大学で建築を学び、家具などのデザインに打ち込んでいました。そしてマリアさんも、まもなく大学に入学する予定でした。楽しく学生生活を送るはずだった2人の未来を、戦争が奪ったのです。
ファジリャさん
「キーウの大学はリモート授業になりました。仕事は楽しいけれど、友達に会いたいです」
去年9月末、ウクライナを離れ、カタールを経由して日本へやってきました。そして、広島で暮らしていた母の友人を頼り、異国の地で2人だけでの暮らしが始まりました。
今年1月26日は、スタッフの分の昼食の調理を任されました。キャベツを切るのはお手の物ですが、複数枚を同時に焼くのは初めてです。それでも大きな鉄板の温度調節に気をつけながら、手際よく焼き上げることができました。評判も上々です。
広島に来て初めて知った「お好み焼き」。その味に魅了されました。そして、その歴史もいまの2人にはとても印象に残りました。
1945年8月6日、広島に原爆が落とされ、まちは廃墟と化しました。食糧難に苦しむ中、支援物資として手に入った小麦粉に具材をのせて焼いたお好み焼きが、市民の空腹を満たしてくれました。焼け野原から立ち上がった人々をささえたお好み焼きは、広島の復興を象徴する「ソウルフード」になりました。
ファジリャさん
「お好み焼きは、原爆投下後に人々が、そばやキャベツなど安くて簡単な食材でつくり、買うことができた。広島の象徴で、平和の象徴だと思う」
マリアさん
「私たちが母国に戻ることができたら母や家族に作ってあげたい」
姉妹は週に2回、自宅のパソコンからオンラインで日本語を学んでいます。職場で聞いたときに意味がわかる日本語も少しずつ増えてきました。
広島に来てまもなく5か月。新しい環境にも慣れつつあり、学ぶことができる環境に喜びを感じています。
マリアさん
「ひらがなは書き順が難しいけれど、勉強は楽しいです」
日々の緊張も解けて、笑顔が増えました。来日のためのビザや住居を手配した支援企業のスタッフも、たびたび気にかけてくれます。節分には恵方巻きを食べ、豆まきなどの日本文化も楽しみました。
ファジリャさん
「職場や、支援してくれる企業のみんなは私たちの第二の家族です」
ファジリャさんは、日本で出会った人々の優しさに、日々支えられているといいます。
平日の朝から夕方まで働いた後は、買い物をして帰宅し、2人でキッチンに立ちます。ウクライナ料理の好物の「ボルシチ」をつくったり、魚や植物を育てたりしながら、少しずつ心の平穏を取り戻していきました。
2月上旬。ウクライナにいる母エディヤさんと電話がつながりました。今は仕事で西部の都市「リヴィウ」にいるといいます。
姉妹は電話がつながってすぐ、母の無事を確認し、近況を聞きます。エディヤさんもまた、姉妹の生活や仕事について聞き、ほっとした表情です。医師の仕事が忙しく、こうしてテレビ電話でゆっくり話をするのは久しぶりのことでした。
エディヤさんは眼科医で、攻撃で負傷した兵士や市民を治療する医師たちを指導する立場です。物流が滞り、眼鏡やコンタクトレンズが不足している状況や、負傷した兵士の治療やメンタルケアなど幅広く対応しなくてはなりません。
母がおかれている状況を聞き、涙目で話を聞く姉妹...。エディヤさんはなぜ娘だけを避難させることを選んだのでしょう。
エディヤさん
「残念ながら、ウクライナに安全な場所はありません。いつどこで爆発が起こるかわからないからです。でも私が日本に避難するという支援団体からのオファーを受けなかった理由は、私が医者だからです。私は患者や医者と一緒にいなければなりません」
「今年、私たちはみんな離ればなれです。娘たちは日本、私はウクライナ、母や祖母はクリミアにいます。なんと言えば良いでしょうか。私は、すぐに戦争が終わることを願っています。クリミアに行き家族にハグをしたいです」
ロシアは、病院など多くの医療機関をも攻撃しました。攻撃により負傷して治療中だった兵士が、病院でも大勢亡くなっているといいます。家や子どもたちのいる学校も無差別に攻撃し、一般市民も大勢犠牲になっています。
今姉妹に伝えたいことは何かと聞くと、エディヤさんはこう答えました。
エディヤさん
「愛している。そして、あきらめないで。日本で学べることや機会を大切にしてほしい」
それは、「大学に通い友達と学ぶ」という当たり前だったはずの学生生活を閉ざされた娘たちへのメッセージでした。
ファジリャさん
「私たちは戦争が始まる前、当たり前の日常を送っていました。でも今は友達にもボーイフレンドにも会えなくなりました。学生らしく10代のように、友達に会ったり買い物に行ったり当たり前の日常を送っていたのに...」
ロシアによる軍事侵攻がはじまってから1年がたちます。広島に来てから、平和公園には何度も足を運びました。かつての広島と母国の今の姿が重なるといいます。
ファジリャさん
「一刻も早く戦争が終わってほしいです。今、ウクライナの町は破壊され、美しい景色を見ることはできません。でも数年後、広島のように建物が復興し、とても美しく平和な場所になることを願っています」
マリアさん
「今もっとも望むのは平和です。ウクライナにいる母や、クリミアの家族や友人に会いたいです。この地に来て、広島は平和の象徴だと学びました。世界中すべての場所は平和であるべきで、それは今すぐに実現されるべき最も大切な目標です」
戦争は、高校・大学に通い青春のまっただ中にいた姉妹の日常を奪いました。2人はきょうも広島で働きながら家族の無事を祈り続けています。
制作:広島テレビ放送 金丸真帆
取材:2023年1月~2月〆
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