ロシアによるウクライナ侵攻開始から24日で1年となる。ロシア軍は昨年11月、南部戦線の要の都市ヘルソンから撤退。占領期間は8か月に及び、市民はロシア軍による虐待や拷問を受けたとされる。その後もロシア軍の攻撃は続き、市民生活は依然、脅かされている。戦渦の中、「あす死ぬかもしれない」と結婚を決意した夫婦、ライフラインよりも「自由が重要だ」と語る女性ーー。変わり果てた街で、AFPの取材班が現地の声を聞いた(年齢は取材当時)。(文:AFP=時事 翻訳編集:AFPBB News)
ヘルソンの溶接工、アンドリー・クリボフさん(49)は、妻となる女性に結婚の誓いをささやきながら、自身が死んだ後の世界について思いをはせた。
ロシア軍は2022年11月11日、南部前線の要だったヘルソンから撤退した。クレーン車でロシア語の看板が取り外されていた。
簡素な衣装を身に着けた二人が、ウクライナ正教会の司祭の前で誓いを交わしている間も、がらんとした大聖堂に、ウクライナ軍の砲撃音が響いた。ロシア軍もドニエプル川東岸から反撃してきた。
司祭が祈りの言葉を読み上げた。炎がともった黄色いろうそくを左手に持った新郎新婦は、正面の祭壇を見つめる。きらびやかなイコン(聖像画)が飾られた大聖堂に、司祭の声が響き渡る。司祭は金色に輝く王冠を二人の頭にそっと載せた。
クリボフさんはロシア人として生まれた。3歳の時にシベリアからウクライナに一家で移り住んだ。「曽祖父の健康上の理由からだった。南方に移住したほうがいいと医者から薦められた。それ以来、ずっとここに住んでいる」
人生の大半を連れ添ってきた看護師のナタリアさんと、ついに結婚した。クリボフさんには娘3人と息子1人がおり、うち3人はナタリアさんとの子どもだ。
ロシアはヘルソンを、ウクライナ南部の拠点とする算段だった。そこから撤退したことで、戦闘は新たな局面に入った。
ヘルソンは、ロシアが併合したクリミア半島と輸出拠点のオデーサ港をつなぐ交通の要所。そのためロシア軍の大規模攻撃を免れてきた。
ウクライナ側が反撃に転じてから3か月。ロシア側としては、ヘルソンを奪還されたことで、南部沿岸全域を制圧するというウラジーミル・プーチン大統領の計画は阻まれた。
今やヘルソンは、ウクライナ軍にとって、東部での反攻に向けた前線となった。
教会に向かう道すがら、クリボフさんの頭には恐ろしい考えがよぎっていた。ロシア軍にとってこの街を無傷で残す戦略的な意味がなくなった以上、報復攻撃を仕掛けてくるのではないかと。
「あす死ぬかもしれない」とクリボフさん。「ヘルソンは今や前線の一部となった。爆撃が始まった時、夫と妻として神の前に立ちたい」
クリボフさんはナタリアさんの手を握りながら、「今すぐにでもやつらが爆撃してくる可能性は極めて高い」と語った。
ナタリアさんの目には涙が浮かんで見えた。夫に寄り添い教会を後にしながら、胸の前で何度も十字を切った。
かつて養鶏場を営んでいたリディア・ベロワさん(81)。泉からホースで引いてきている水をプラスチック容器にくむため、辛抱強く順番を待っていた。
ロシア軍は撤退に伴い、電気・水道などのインフラを破壊していった。「給水は15時まで」と書かれた貼り紙の前に、ポリタンクを持った市民が水を求めて長い列をつくっている。
ベロワさんは、ロシア軍は占領していた8か月の間、商店から略奪し、抵抗を示した市民を拘束したと話す。
ロシア軍をわずかであっても後退させたのだから、苦難のかいはあったと考えている。
「自由は常により重要だ」「水は大した問題ではない。列に並べば済む。でも、ウクライナは私たちが守らなければ」と語った。
ヘルソン州も、隣のザポリージャ州も、侵攻前はロシアの支配下にはなかった。
一方、東部ルガンスク、ドネツクの2州の一部は、2014年に親ロ派武装勢力が独立を宣言し、間接的にロシアの支配下に入った。
ロシア支配に反対した住民は、8年の間に西に移住していった。その多くは、ウクライナ語話者の若い世代だった。
ウクライナ語話者が多数を占める南部がロシア支配に直面したのは、今回が初めてだった。
ヘルソン市内の病院の院長を務めるイリーナ・スタロドゥモワさんは、侵攻により職員間の根本的な隔たりが浮き彫りになったと言う。
ロシアが昨年9月に東・南部4州併合を宣言する前に、病院の職員の半数がすでに退職していた。
州境が事実上封鎖されたため街にとどまらざるを得なかった一部の職員は、ロシアによる占領を受け入れているように見えた。
「ここに勤めていた42年間、共有していると思っていたのとは違う価値観を持っている人間と一緒に働いていたなんて思いもしなかった」「(親ロ派の職員は)出勤して仕事を済ませ、その価値観も家に持って帰る」と、スタロドゥモワさんは話す。
「寛容でいようと努力している」
クリボフさんとナタリアさんが式を挙げた大聖堂には、ロシア皇帝エカテリーナ2世の下で活躍した軍人グリゴリー・ポチョムキンの遺体が安置されていた。
ポチョムキンは、ドニエプル川沿いの新しい領地を視察に来たエカテリーナ2世に見せるため、偽の村を造ったことで知られる。貧しい実態を隠し、征服した土地には価値があることを印象付けるためだったとされる。
それでも、ヘルソン市民は街の創設者としてポチョムキンに敬意を払ってきた。大聖堂のアンドリー長輔祭は、ポチョムキンの遺体を見守るという自らの職務を誇りに思っていた。
しかし今、遺体はない。「銃を持ったロシア兵が来て持ち去った」と話した。
ポチョムキンは1783年、トルコの宗主権下にあったクリミアの併合を実現した。「ロシア帝国復活」を目指す一部ロシア人にとっては、ポチョムキンは今なお大きな存在感を放っている。
「二つの世界大戦を経験し、ナチスと、神を知らぬ共産主義者もやって来たが、ポチョムキン(の遺体)に触れた者はいなかった」と、アンドリー長輔祭は怒りをあらわにする。
ロシア軍は撤退時、ヘルソン各地にあったポチョムキンの像や遺物も持ち去った。
「自分たちの遺産を持ち帰りたかったのかもしれない」「でも、自分たちが泥棒集団以外の何者でもないことをさらけ出しただけだ」
(c)AFP/Dmitry ZAKS /ANDRII KALCHENKO
取材:2022年11月
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