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「死の恐怖は感じなかった」。太平洋戦争末期、軍需物資を運ぶ"徴用船"で働いていた少年たちがいます。徴兵年齢に満たない、身長も足らない――そんな10代前半の子どもたちが戦争の担い手として働かされ、命を落としていました。目の前で仲間を失った、数少ない"徴用船"の生存者の一人は、子どもたちが簡単に「自分の命にさえ鈍感」になり、「人殺しの道具にされてしまう」戦争の恐ろしさを証言してくれました。
「魚雷が来るぞ!」1944年11月3日、深夜1時ごろのことでした。 南シナ海を航行中の船の甲板でうとうとしていた当時14歳の大矢秀二さん。
「ダーン」という大きな衝撃、反対側の船べりで水柱が上がりました。
10メートルほどのところにいた同い年の乗組員が、爆発に巻き込まれました。
船は浸水しはじめ、ゆっくりと傾いていきます。
「下はダメだ。上に登れ」
誰かの叫ぶ声に従い、重油で滑る甲板を登り、救命ボートにたどりつきました。
25メートル下の海面にボートを降ろして縄ばしごで乗り込み、助かった命。
「あんな経験をしても、死の恐怖は最後まで感じなかった。今思うと、まひしていたんでしょうね」
戦後79年、94歳になった大矢さんは、当時をそんな風に振り返ります。
国民学校高等科の卒業を控えた1943年10月、教員から「軍隊に志願するか、軍需工場などに働きに出るか」を迫られました。
「お前が実家の農業を継げば、代わりにお前の兄が行かなきゃならなくなる」
教員にそう言われた大矢さん。「今考えたら、ほとんど脅迫ですよ。でも当時はおかしいとは思わなかった」と振り返ります。
徴兵年齢は17歳。軍需工場などに働きに出る同級生がほとんどでしたが、「どうせなら軍人になって国の役に立ちたいと思いました。けれど、身長が143センチしかなくて、不合格だったんです」
そんなとき、教員から提案されたのが「徴用船」の乗組員です。
徴用船とは日本軍に徴用された民間船で、輸送艦の代わりに物資を運んだり、哨戒艇の代わりに敵を探したりと危険な任務を担いました。7千隻以上の民間船が沈み、6万人以上の船員が死亡。その3割が20歳未満の乗組員だったといいます。
翌年の春、大矢さんは乗組員としての訓練のために故郷を離れて、和歌山へと向かいます。
この時、大矢さんの同級生や近所の子どもたちが総出で見送りに来たといいます。
「日の丸を振って、まるで兵士の出征のようでした」
地元の岩船町駅に向かう大矢さんに、母・トネさんが村はずれまで付き添ってくれました。
後ろを振り返るたび、いつまでもトネさんが立ち続けていたことが忘れられないと、大矢さんは語ります。
和歌山では、同年代の子どもたちと一緒におよそ2カ月間、海軍の訓練を受けました。最もつらかった訓練が、「カッター」と呼ばれる手こぎボートに乗るもの。体が小さかったこともあり、重いオールを動かすのが大変だったそうです。
「12人乗りのボートが3隻あって、チームごとに分かれて訓練するんです。誰かがミスをすると、連帯責任でチーム全員が木刀で尻をたたかれました」
養成所の不衛生な環境にも悩まされました。
「下着をめくると、裏にびっしりとシラミが付いていたこともありました」
夜は、ひと部屋に10人が川の字になって寝ていました。故郷を思ってか、声を抑えてすすり泣く子もいたそうです。
訓練を終えた大矢さんは、完成したばかりの大阪商船(現在の商船三井)のタンカー「大明丸」で輸送任務につくことになりました。
兵器や弾薬などの軍需物資を南方の前線に運び、日本に現地の資源を持ち帰る大明丸。
ボイラーの番や雑用全般が大矢さんの仕事でした。
船の積載量は約6千トンでしたが、実際には7千トン以上積み込む過積載状態も珍しくなかったそうです。
「船べりから手を伸ばすと海面に届きそうなくらい、船が沈み込んでいました。最高速度は13ノット弱でしたが、実際には9ノットも出ませんでした。襲われたら逃げられない」
乗組員の間には、あきらめにも似た空気がありました。
「1隻でも日本についたらもうけもんだ」
そんな状況でも大矢さんは、「死ぬのが怖いとは思いませんでした。船の中、訪れる先で見るもの全部が目新しくて、楽しいと感じることさえありました」。
魚雷の攻撃を受けたのは、1944年11月3日、ボルネオからベトナムへ向かって南シナ海を航行中のことでした。
深夜1時ごろ、寝苦しい暑さのなか、見張りが上げた声で目を覚まします。
「緊急ー!」「魚雷が来るぞ!」
同い年の乗組員は、この爆発に巻き込まれて亡くなりました。
「船の食堂で何度か顔を合わせた程度。まだゆっくり話をする機会もないままでした」
極限状態でも感じなかった「恐怖」。心がまひしてしまったようでした。海軍の船に救助され、45年の年明けに日本へ戻ることができました。
帰国後の大矢さんは、結核性の肋膜炎を患い、終戦まで療養生活を過ごしました。
九死に一生を得て帰ってきた息子に対し、両親は「かなり淡々としていた」そうです。
「『よく帰ってきたね』くらいは言われた記憶があるのですが、映画やドラマで見るような『感動の再会』というのではなかったです」
しかし、そんな両親が一度だけ、声を荒らげたことがあったといいます。
終戦後、大阪商船から、戦地の兵隊を乗せて帰るための復員船の乗組員をやらないかと誘われました。
すると、父の健治さんは血相を変え、こう返事したそうです。
「絶対にダメだ。こんな小さな子どもひとり船で働かせるなんて、させられるわけがないだろう」
この時、大矢さんは、両親の言動の裏にあったものが分かったような気がしたといいます。
「戦時中は、国のやることに疑問を持つことは許されませんでした。戦後に出てきたあの言葉は、ずっと口に出せなかった父の本音だったのでしょう」
大矢さんは戦後、旧国鉄に就職。23歳で結婚し、翌年には子どもも産まれました。
「家庭を持って初めて、『なんて愚かな戦争だったんだ』と実感できたような気がします」
まもなく戦後79年を迎えますが、大矢さんは自身の戦争体験を語ることはほぼありませんでした。
「聞いていて楽しい話ではない。それに、もっと悲惨な経験をした人がいるのに、わざわざ自分が話をする必要もないだろう」と考えていました。
しかし、元徴用船員のほとんどが亡くなっていくなか、自らの体験を語ろうと決意したといいます。
大矢さんは「『日本のために戦った』と犠牲者を美化してはいけない」と指摘します。
「『国を守るため』というのは本質じゃない。権力者に都合よくまつりあげられ、人殺しの道具にされてしまう」
自分の命にすらも「鈍感」だった当時の自分を振り返り、「物心ついた頃から戦争一色で、疑問を持つことができなかった」と話します。
近年も、ウクライナやガザで続く戦禍のニュースに心を痛めているという大矢さん。「日本でも憲法を変えようという動きがあるのが気になりますね。今の平和憲法ができた時、『これで少なくとも、日本が戦争をしかける側になることは無くなったのだ』と喜んだのですが」
また、あの戦争との自身の向き合い方についても最近、ふと、思うことがあるそうです。
「敗戦で世の中の価値観がガラッと変わったから、私たちはあの戦争についてじっくり考えることもないまま、ここまできてしまったのではないか」
そんななか、若い世代に、こう語りかけます。「暴力に暴力で応じる以外の方法を探し続けてください。また同じ事を繰り返しては、ダメですよ」
武田啓亮
朝日新聞デジタル企画報道部取材にあたり、徴用船の船員や遺族で作る日本殉職船員顕彰会に元乗組員の紹介をお願いしたところ、「連絡が取れる方は大矢さんしかいない」とのことでした。高齢化に加え、そもそも徴用船の乗組員のうち連絡先などを把握できている方はごく一部なのだそうです。「ジャーナリズムは歴史の第一稿である」という言葉があるように、こうした証言を後世に残すのは、記者の重要な仕事の一つです。それを改めて実感した取材でした。
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