連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
withnewsとYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。(取材執筆・水野梓、映像制作・宮本聖二)
日本のバウムクーヘンの発祥の地――。そんな風に呼ばれる、広島湾に浮かぶ似島。伝染病の流入を防ごうと19世紀末以降、軍人たちの検疫所が設けられ、捕虜収容所も設置されていました。遠足などで訪れ、自然に親しむ子どもたちも多い島。77年前の朝、ある指令がおりてきて、壮絶な光景が広がったといいます。
似島は広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほどで到着します。富士山に姿形が似た山「安芸小富士」があり、「似島」と呼ばれるようになったともいわれます。
誰もがよく知るお菓子「バウムクーヘン」は、この似島の捕虜収容所に収容されたドイツ人のカール・ユーハイム氏が、日本で初めて作りました。
1919年(大正8年)、捕虜の作品展示即売会で菓子作りの担当になったカールは、材料集めに苦心しながらバウムクーヘンを焼き上げました。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で製造販売されたといいます。
解放されたあと、カールは老舗洋菓子メーカー「ユーハイム」を創業。バウムクーヘンが日本でも広まっていきました。
そんな菓子の誕生から26年後、帰還兵の減少とあわせて検疫の作業も減っていた似島に、広島本土の司令部から突然、指令がおりてきます。
「医療班を待機させ、500人の患者を受け入れる準備を」
1945年8月6日朝のことでした。
この時から、似島は膨大な被爆者の治療にあたる「野戦病院」の島となったのです。
似島の「学園桟橋」という船着き場で、似島に住む宮崎佳都夫さんと待ち合わせました。
宮崎さんは島の郷土史を編纂。「似島歴史ボランティアガイド養成講座」の講師も務めています。
学園桟橋のそばには、戦跡の位置を示す看板がありましたが「島の戦争遺跡はどんどんなくなりつつある」と危機感を募らせます。
似島が戦争に利用されたのは1895年、検疫所が設けられたのが始まりです。コレラなどの伝染病が本土に入ってこないように、戦闘地域から戻ってきた軍人や軍属の検疫所がつくられました。
似島:広島港から約3kmの沖合にあり、周囲13kmほどの島。日清戦争中の1895年(明治28年)に第一検疫所、日露戦争中の1904年(明治37年)に第二検疫所が設立。さらに第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)に馬匹検疫所が建てられました。原爆の爆心地から約8kmで検疫所に医薬品の蓄えがあったことから、原爆投下の当日から「臨時野戦病院」となりました。20日間でおよそ1万人が運び込まれ、薬はすぐに底をつき、被爆者は治療のかいなく亡くなっていったといいます。
まず宮崎さんが連れていってくれたのは、第一検疫所が使っていた2本の桟橋です。日清・日露戦争以降は帰還兵の出入りに使われました。
釣りスポットでもある似島は、海沿いの道で多くの釣り人が糸をたらしていました。サイクリングで訪れる人も多いといいます。
島の北部に進むと、検疫所で出た感染物などを焼却する炉の煙突が残っていました。波に削られ、木に埋もれており、宮崎さんの案内で訪れなければ、その歴史に気づくことは難しいと感じます。
1945年8月6日の朝、広島の司令部から「医療班を待機させて、500人の患者を受け入れる準備をしろ」という指令がおりてきました。
原爆の爆風ではガラスが割れるなどの直接被害しかなかった似島では、爆心地周辺で何が起きたのか当時は分かっていなかったそうです。
宮崎さんは「海に多くの船が見え、押し寄せるように負傷者がやってきたそうです」と振り返ります。大やけどを負った女性や子どもがたくさんいたそうです。
あっという間に検疫所は被爆者であふれ、すのこの上や軒下、木の下にも患者が横たわりました。
やけどや外傷のない患者にも、血便や高熱といった症状が起き、それが後に「急性放射線障害」だったと判明します。
当時、診療に当たったのは旧暁6165部隊。隊長を務めた軍医の西村幸之助氏は、こんな言葉を残しています。
「病院の手術室では、三日三晩、寝る暇も惜しんで手足の切断手術をしました」
「手術のできなかった人は、その後まもなくみんな死亡されました」
「この戦争でいろんなひどい患者を見てきました。しかし広島の原爆被害者のようにひどい人たちをみたことはありません。傷のひどさ、人数の多さはとくにひどく、赤ちゃんからお年寄りまで人を選んでいません」(広島市似島臨海少年自然の家 平和学習資料より)
被爆者の遺体を火葬するのもままならず、検疫所の近くにまとめて埋められました。戦後、焼却炉周辺からはたくさんの遺骨が掘り起こされました。その焼却炉のひとつが、臨海少年自然の家の一角に移設されています。
似島に搬送された約1万人のうちのひとりが、自身の体験を語り続け、核兵器廃絶運動を引っ張ってきた日本被団協代表委員の坪井直さんでした。坪井さんは昨年10月、96歳で亡くなりました。
8月下旬までに生きて似島から他の場所へ移された被爆者は、2~3千人ほどだったといわれています。
悲惨な記憶を次世代にも語り継いでいこうと、宮崎さんたちは「似島歴史ボランティアガイドの会」(https://guide.ninoshima.org/?page_id=32(外部リンク))を設立。広島市の補助を受けて、「慰霊の広場」に隣接した似島平和資料館を2021年4月に建設しました。
似島では、残っている戦跡も木々に飲み込まれそうになっていて、道沿いの戦跡にも説明版などはありません。
ふらりと訪れた観光客も、説明板やガイドツアーがあれば、学べる機会も多いのでは――。
そう宮崎さんに問いかけると、「例えば『桟橋』は国有財産でこちらが何かすることはできない。管理を団体に任せてもらえば、説明版を作ったりお世話したりできます」と指摘します。
「戦争や原爆の問題は、似島だけの問題じゃない。人間として残していかなければいけないと思っています」と語ります。
「微々たる力でも、次の世代に伝わればいいなと思います」
東京駅からは新幹線で約4時間。
広島空港からは広島市中心部のバスセンターまで、高速バスで約1時間。
広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほど。
※戦跡の集まる「学園桟橋」側には、似島汽船で3回しか発着がないため注意が必要(https://ninoshimakisen.jp/time_price(外部リンク))
旅の予定:
似島の戦跡めぐりは、似島臨海少年自然の家の「平和学習」のページが参考になります。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/(外部リンク)
制作:withnews・Yahoo!ニュース
取材:2021年11月
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