原爆投下直後1万人の被爆者が運ばれた島 〜広島市似島〜

連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
withnewsとYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。(取材執筆・水野梓、映像制作・宮本聖二)

日本のバウムクーヘンの発祥の地――。そんな風に呼ばれる、広島湾に浮かぶ似島。伝染病の流入を防ごうと19世紀末以降、軍人たちの検疫所が設けられ、捕虜収容所も設置されていました。遠足などで訪れ、自然に親しむ子どもたちも多い島。77年前の朝、ある指令がおりてきて、壮絶な光景が広がったといいます。

似島のフェリーの船着き場そばにある〝戦跡〟。古そうですが一見しても何のトンネルか分かりません。「弾薬庫」に通じていた通用トンネルの跡だといいます(2021年11月、水野梓撮影) 似島のフェリーの船着き場そばにある〝戦跡〟。古そうですが一見しても何のトンネルか分かりません。「弾薬庫」に通じていた通用トンネルの跡だといいます(2021年11月、水野梓撮影)

戦争の捕虜が広めたバウムクーヘン

似島は広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほどで到着します。富士山に姿形が似た山「安芸小富士」があり、「似島」と呼ばれるようになったともいわれます。

広島港から眺める似島。「富士に似た島」として「似島」と呼ばれたともされる安芸小富士が見えます(2021年11月、水野梓撮影) 広島港から眺める似島。「富士に似た島」として「似島」と呼ばれたともされる安芸小富士が見えます(2021年11月、水野梓撮影)

誰もがよく知るお菓子「バウムクーヘン」は、この似島の捕虜収容所に収容されたドイツ人のカール・ユーハイム氏が、日本で初めて作りました。

1919年(大正8年)、捕虜の作品展示即売会で菓子作りの担当になったカールは、材料集めに苦心しながらバウムクーヘンを焼き上げました。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で製造販売されたといいます。

中国・青島(チンタオ)で喫茶店「ユーハイム」を開いていたカール氏。日本に連行され、似島の捕虜収容所に収容されました 中国・青島(チンタオ)で喫茶店「ユーハイム」を開いていたカール氏。日本に連行され、似島の捕虜収容所に収容されました

解放されたあと、カールは老舗洋菓子メーカー「ユーハイム」を創業。バウムクーヘンが日本でも広まっていきました。

そんな菓子の誕生から26年後、帰還兵の減少とあわせて検疫の作業も減っていた似島に、広島本土の司令部から突然、指令がおりてきます。

「医療班を待機させ、500人の患者を受け入れる準備を」

1945年8月6日朝のことでした。

この時から、似島は膨大な被爆者の治療にあたる「野戦病院」の島となったのです。

朽ち果てつつある戦跡

似島の「学園桟橋」という船着き場で、似島に住む宮崎佳都夫さんと待ち合わせました。

宮崎さんは島の郷土史を編纂。「似島歴史ボランティアガイド養成講座」の講師も務めています。

学園桟橋のそばには、戦跡の位置を示す看板がありましたが「島の戦争遺跡はどんどんなくなりつつある」と危機感を募らせます。

戦跡は「学園桟橋」側に集中していますが、1日に3回しか発着しないため注意が必要です(2021年11月、宮本聖二撮影) 戦跡は「学園桟橋」側に集中していますが、1日に3回しか発着しないため注意が必要です(2021年11月、宮本聖二撮影)

帰還兵の検疫所だった似島

似島が戦争に利用されたのは1895年、検疫所が設けられたのが始まりです。コレラなどの伝染病が本土に入ってこないように、戦闘地域から戻ってきた軍人や軍属の検疫所がつくられました。

似島:広島港から約3kmの沖合にあり、周囲13kmほどの島。日清戦争中の1895年(明治28年)に第一検疫所、日露戦争中の1904年(明治37年)に第二検疫所が設立。さらに第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)に馬匹検疫所が建てられました。原爆の爆心地から約8kmで検疫所に医薬品の蓄えがあったことから、原爆投下の当日から「臨時野戦病院」となりました。20日間でおよそ1万人が運び込まれ、薬はすぐに底をつき、被爆者は治療のかいなく亡くなっていったといいます。

まず宮崎さんが連れていってくれたのは、第一検疫所が使っていた2本の桟橋です。日清・日露戦争以降は帰還兵の出入りに使われました。

第一検疫所の桟橋。満潮の日で一部しか見えませんでした。フェンスは立ち入れないように国が建てたといいます。消毒前の帰還兵が使う桟橋、検査が終わって消毒済みの兵が使う桟橋と、2本で用途を分けていたといいます(2021年11月、水野梓撮影) 第一検疫所の桟橋。満潮の日で一部しか見えませんでした。フェンスは立ち入れないように国が建てたといいます。消毒前の帰還兵が使う桟橋、検査が終わって消毒済みの兵が使う桟橋と、2本で用途を分けていたといいます(2021年11月、水野梓撮影)

釣りスポットでもある似島は、海沿いの道で多くの釣り人が糸をたらしていました。サイクリングで訪れる人も多いといいます。

ガードレールのそばに立つ煙突。のぞき込むと、下部は波に削られ、今にも倒壊しそうでした(2021年11月、水野梓撮影) ガードレールのそばに立つ煙突。のぞき込むと、下部は波に削られ、今にも倒壊しそうでした(2021年11月、水野梓撮影)

島の北部に進むと、検疫所で出た感染物などを焼却する炉の煙突が残っていました。波に削られ、木に埋もれており、宮崎さんの案内で訪れなければ、その歴史に気づくことは難しいと感じます。

似島に運ばれてきた被爆者

1945年8月6日の朝、広島の司令部から「医療班を待機させて、500人の患者を受け入れる準備をしろ」という指令がおりてきました。

原爆の爆風ではガラスが割れるなどの直接被害しかなかった似島では、爆心地周辺で何が起きたのか当時は分かっていなかったそうです。

船で運ばれてきた被爆者たちが似島に上陸した桟橋の場所。似島臨海少年自然の家の近くにありますが、説明板などはなく、一見するとふつうの桟橋です(2021年11月、水野梓撮影) 船で運ばれてきた被爆者たちが似島に上陸した桟橋の場所。似島臨海少年自然の家の近くにありますが、説明板などはなく、一見するとふつうの桟橋です(2021年11月、水野梓撮影)

宮崎さんは「海に多くの船が見え、押し寄せるように負傷者がやってきたそうです」と振り返ります。大やけどを負った女性や子どもがたくさんいたそうです。

似島に運ばれ、全身にやけどを負った被爆者。1945年8月7日、尾糠政美さん撮影 似島に運ばれ、全身にやけどを負った被爆者。1945年8月7日、尾糠政美さん撮影(提供:尾糠清司さん)

あっという間に検疫所は被爆者であふれ、すのこの上や軒下、木の下にも患者が横たわりました。

被爆者が当時の様子を描いた絵で説明する宮崎さん。医薬品はすぐに底をつき、夏の蒸し暑さでやけどやけがの症状はどんどん悪化。苦しさのあまり「死なせてくれ」と海に飛び込もうとする患者もいたといいます(2021年11月、水野梓撮影) 被爆者が当時の様子を描いた絵で説明する宮崎さん。医薬品はすぐに底をつき、夏の蒸し暑さでやけどやけがの症状はどんどん悪化。苦しさのあまり「死なせてくれ」と海に飛び込もうとする患者もいたといいます(2021年11月、水野梓撮影)

やけどや外傷のない患者にも、血便や高熱といった症状が起き、それが後に「急性放射線障害」だったと判明します。

当時、診療に当たったのは旧暁6165部隊。隊長を務めた軍医の西村幸之助氏は、こんな言葉を残しています。

診療にあたった旧暁6165部隊の生存者が建立した慰霊碑。部隊は病院船で傷病兵を輸送したり診療したりしていましたが、似島で野戦病院を開設し1万人もの被爆者を診療・介護したとされます(2021年11月、水野梓撮影) 診療にあたった旧暁6165部隊の生存者が建立した慰霊碑。部隊は病院船で傷病兵を輸送したり診療したりしていましたが、似島で野戦病院を開設し1万人もの被爆者を診療・介護したとされます(2021年11月、水野梓撮影)

「病院の手術室では、三日三晩、寝る暇も惜しんで手足の切断手術をしました」
「手術のできなかった人は、その後まもなくみんな死亡されました」
「この戦争でいろんなひどい患者を見てきました。しかし広島の原爆被害者のようにひどい人たちをみたことはありません。傷のひどさ、人数の多さはとくにひどく、赤ちゃんからお年寄りまで人を選んでいません」(広島市似島臨海少年自然の家 平和学習資料より)

遺体が火葬された焼却炉

被爆者の遺体を火葬するのもままならず、検疫所の近くにまとめて埋められました。戦後、焼却炉周辺からはたくさんの遺骨が掘り起こされました。その焼却炉のひとつが、臨海少年自然の家の一角に移設されています。

馬匹検疫所の焼却炉では、たくさんの遺骨が掘り起こされました。原爆の悲惨さを伝えるため、焼却炉の1基が移設・保存されています(2021年11月、水野梓撮影) 馬匹検疫所の焼却炉では、たくさんの遺骨が掘り起こされました。原爆の悲惨さを伝えるため、焼却炉の1基が移設・保存されています(2021年11月、水野梓撮影)

似島に搬送された約1万人のうちのひとりが、自身の体験を語り続け、核兵器廃絶運動を引っ張ってきた日本被団協代表委員の坪井直さんでした。坪井さんは昨年10月、96歳で亡くなりました。

8月下旬までに生きて似島から他の場所へ移された被爆者は、2~3千人ほどだったといわれています。

似島臨海少年自然の家に残っている、第二検疫所の井戸。被爆者の救護にも使われました。水を求めていた被爆者のために、平和記念式典の「献水」としても使われています(2021年11月、宮本聖二撮影) 似島臨海少年自然の家に残っている、第二検疫所の井戸。被爆者の救護にも使われました。水を求めていた被爆者のために、平和記念式典の「献水」としても使われています(2021年11月、宮本聖二撮影)

「次世代に伝われば」

悲惨な記憶を次世代にも語り継いでいこうと、宮崎さんたちは「似島歴史ボランティアガイドの会」(https://guide.ninoshima.org/?page_id=32(外部リンク))を設立。広島市の補助を受けて、「慰霊の広場」に隣接した似島平和資料館を2021年4月に建設しました。

1971年には似島中学校のグラウンドから被爆者517体の遺骨が発見されました。犠牲者に祈りを捧げるため、隣接するように建てられた慰霊碑(2021年11月、水野梓撮影) 1971年には似島中学校のグラウンドから被爆者517体の遺骨が発見されました。犠牲者に祈りを捧げるため、隣接するように建てられた慰霊碑(2021年11月、水野梓撮影)

似島では、残っている戦跡も木々に飲み込まれそうになっていて、道沿いの戦跡にも説明版などはありません。

ふらりと訪れた観光客も、説明板やガイドツアーがあれば、学べる機会も多いのでは――。

そう宮崎さんに問いかけると、「例えば『桟橋』は国有財産でこちらが何かすることはできない。管理を団体に任せてもらえば、説明版を作ったりお世話したりできます」と指摘します。

偶然、資料館を訪れた人に説明することもあるという宮崎さん(2021年11月、水野梓撮影) 偶然、資料館を訪れた人に説明することもあるという宮崎さん(2021年11月、水野梓撮影)

「戦争や原爆の問題は、似島だけの問題じゃない。人間として残していかなければいけないと思っています」と語ります。

「微々たる力でも、次の世代に伝わればいいなと思います」

旅の楽しみ

似島臨海少年自然の家ではバウムクーヘンを焼き上げる体験ができます(http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/)。入り口に「菓子伝説の地へようこそ」との看板がありました(2021年11月、水野梓撮影) 似島臨海少年自然の家ではバウムクーヘンを焼き上げる体験ができます(http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/(外部リンク))。入り口に「菓子伝説の地へようこそ」との看板がありました(2021年11月、水野梓撮影)
似島臨海少年自然の家の展示コーナー。似島の歴史を学ぶことができます(2021年11月、水野梓撮影) 似島臨海少年自然の家の展示コーナー。似島の歴史を学ぶことができます(2021年11月、水野梓撮影)
広島市内のあちこちで食べられるお好み焼き(2021年11月、水野梓撮影) 広島市内のあちこちで食べられるお好み焼き(2021年11月、水野梓撮影)

アクセス

東京駅からは新幹線で約4時間。
広島空港からは広島市中心部のバスセンターまで、高速バスで約1時間。

広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほど。
※戦跡の集まる「学園桟橋」側には、似島汽船で3回しか発着がないため注意が必要(https://ninoshimakisen.jp/time_price(外部リンク)

旅の予定:
似島の戦跡めぐりは、似島臨海少年自然の家の「平和学習」のページが参考になります。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/(外部リンク)

制作:withnews・Yahoo!ニュース
取材:2021年11月

写真ギャラリー

未来に残す 戦争の記憶 トップへ