連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
withnewsとYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。(取材執筆・水野梓、映像制作・宮本聖二)
VRツアーを案内するメアリー・ポピオさん(2021年11月、水野梓撮影)空を見上げると爆撃機がさしかかり、ピカッと光ったその「一瞬」のあと、街は真っ黒に......。火傷やけがでもだえ苦しむ人々に胸が詰まり、ゴーグルを外すと、そこは今の広島・元安橋のたもとです。VRやアプリといった最新のテクノロジーを駆使したり、被爆建物や樹木を案内して「記憶をつなぐ旅」に取り組むガイドたちを訪ねました。
広島・元安橋の近くに建つ被爆建物のレストハウスで待ち合わせたのは、NPO団体Peace Culture Village(PCV)のメアリー・ポピオさん。この夏から、VR(仮想現実)を使った有料ガイドツアー(外部リンク)を開催しています。
昨年リニューアルしたレストハウスは被爆建物で、大正屋呉服店として1929年に建設。原爆が投下された1945年には、広島県燃料配給統制組合が「燃料会館」として使っていました(2021年11月、水野梓撮影)広島に原爆が落ちたとき、一体何が起きたのか、街はどう復興していったのか。体験した被爆者が徐々に亡くなってしまうなか、ゴーグルをつけて「タイムスリップ」したようなVRツアーの開催で、被爆者の記憶をつなぐ取り組みを続けています。
原爆投下の当日、レストハウスでは37人が働いていて、書類を探そうと地下室にいた野村英三さんだけが生き残りました。VRツアーは原爆の爪痕が今も残る地下室から始まります。
VRツアーをガイドするメアリーさんは、アメリカ・ボストン生まれ。隠れキリシタンについて学ぼうと大学2年生で長崎を訪れ、初めて原爆について知り「人生が変わった」といいます。大学卒業後、広島平和文化センター元理事長のスティーブン・リーパーさんと共にPCVを設立しました。
メアリーさんは「原爆は歴史の1ページではなくて、私たちの人生とも結びついていることを伝えたい」と話します(2021年11月、水野梓撮影)元安橋そばの縁に座ってゴーグルをつけます。被爆前の元安橋が目の前に現れました。360度、すべてに当時の光景が広がり、タイムスリップしたような感覚です。
レストハウスの地下室にいて生き残った野村さんを紹介するメアリーさん。リアルなVRツアーでは気分が悪くなってしまう人もいるといい、被爆して苦しむ人物が登場しない「こども」バージョンも選べます(2021年11月、宮本聖二撮影)自分の周りの人たちが空を見上げるので、自分も同様に上空を見上げると、B29が飛来。原爆が落とされた「一瞬」を仮想体験します。それがVRだと分かっていても、炸裂した瞬間は思わず声が漏れました。
原爆投下の一瞬。思わず「うわっ」と声が漏れました。周囲は苦しむ人々でいっぱい。リアルで没入感がありました(2021年11月、宮本聖二撮影)メアリーさんは「被爆者が亡くなっていき、体験した人がいない未来の準備をしなければいけない。テクノロジーは被爆者のストーリーを身近に感じる道具として大切だと思っています」と話します。
元安橋から川沿いに、徒歩数分ほどの相生橋に向かいます。Tの字の形をした相生橋は投下目標になりました。
目標から少し外れ、原爆は「原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)」から南東約160メートル、高度600メートルの地点で爆発しました。「東京スカイツリーぐらいの高さです」と空を指さして説明するメアリーさん(2021年11月、宮本聖二撮影)原爆投下の3日後、相生橋に路面電車が通った――。そんな解説のあと、実際に路面電車がガタゴトと通っていきました。過去が今につながっていることを五感で実感しました。
VRツアーの1場面。広島には原爆投下の3日後に路面電車が通りました広島市内では、ピースボランティアなど無料のガイドツアーもありますが、メアリーさんの団体PCVでは有料ガイドの開催が特徴です。
「『平和を作る仕事』を提供したいという思いが強い。平和活動のサステナビリティーにつながる大事な取り組みだと思っています」
ツアー後の振り返りタイムでは、感じたことをふせんに書いてもらいます(2021年11月、水野梓撮影)「自分の人生のミッションと平和をつなげ、未来をつくるためにヒロシマの過去を振り返って、一緒に楽しく未来を作ろうというメッセージを大切にしています」
次に公園を案内してくれたのは「ヒロシマピースボランティア」の多賀俊介さん。1950年生まれで、原爆投下直後の惨状を直接は目にしていません。教員を退職後にボランティアを始めました。
平和記念公園内を案内するピースボランティアの多賀俊介さん。ヒロシマピースボランティアは10時半~15時半の間、広島平和記念資料館で活動しています(2021年11月、水野梓撮影)多賀さんは「時々『ここは公園だったから被害が少なかったんですか?』とおっしゃる方もいる。ここは『中島地区』といって4000人ほどが住んでいた広島有数の繁華街だったんです、と伝えて『暮らし』が壊滅してしまったという想像をしてもらっています」と話します。
被爆前の中島地区のジオラマ。レストハウスで見られます(2021年11月、水野梓撮影)多賀さんの父は当時、数十キロ離れた呉にいて直接の被害は免れましたが、爆心地周辺に姉と妹が嫁いでいたため、投下翌日に周辺を探しにやってきたそうです。
いまだにお姉さんの行方は分かっていません。小学校5年生の時には、叔母に連れられて初めて平和記念資料館を訪れたといいます。
「怖くなって途中で出ていってしまったんです。その体験が原点になっています。今も資料館で『見たくない』『グロい』と言う子どもたちはいるんですが、それだけで終わってほしくないなと思っています」
かつてここにあった「材木町」のパネル前で説明する多賀さん。当時の地図から「暮らし」に思いを巡らせます(2021年11月、水野梓撮影)多賀さんは当時のようすや、住民たちが使っていた品々の写真を見せながら公園内を案内します。
かつてそこに「暮らし」があり、自分たちと同じようにひとりひとりが住んでいたことを感じてほしいからです。
多賀さんがよく案内するのは、資料館にほど近い場所に移植された被爆アオギリ。
ここで被爆体験を伝えていたのが沼田鈴子さん(享年87歳)。被爆して左足を失い、婚約者も亡くなりました。命を絶とうとさえしましたが、アオギリの芽を見て励まされたような思いがして、自身の体験を語り続けました。
被爆アオギリ。爆心地から1300メートル離れたところで被爆した樹木は翌年に新しい芽を出し、多くの人々を勇気づけました(2021年11月、水野梓撮影)沼田さんとともに活動した多賀さんは「被爆樹木や被爆建物が少しでも残っているから伝わることがある」と話します。
多賀さんが必ず案内するのは、慰霊碑から歩いて数分のところにある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」です。子どもたちには、過去に日本が朝鮮半島を植民地支配していたことを分かりやすく説明します。
当初、慰霊碑は「スペースがない」といった理由で公園の外に設立されました。「差別だ」との批判の声が高まり、1999年に公園内に移設。多賀さんは「なぜ朝鮮半島の人々がここで亡くならなければならなかったのか、考えてほしい」と指摘します(2021年11月、水野梓撮影)原爆を落とされた「被害」だけではなく、日本の「加害」も見つめようと考えているそうです。
一家全滅などで身内の見つからない方や名前の分からない遺骨が約7万柱納められています。修学旅行生が折り鶴を手向けていました。多賀さんは「ここまで足を伸ばしてほしい」といいます(2021年11月、水野梓撮影)現地を巡ることで、多賀さんは「多くの人が生活していて、亡くなった場所だと実感してほしい。歩きながら『自分だったら何をしたか、どんな目に遭っただろうか』と自分に引きつけて考えてほしい」と話します。
当時の広島県産業奨励館の写真と比較しながら、いまの原爆ドームについて説明する多賀さん。原爆の威力が想像できます(2021年11月、水野梓撮影)被爆建物や樹木が残る意義を、被爆者は「物が消えたら心からも消えてしまう」と表現したそうです。
「もし原爆ドームがなく、一帯がビル街になっていたらどうだったでしょう。被爆の記憶はつながったでしょうか。私も被爆の体験はありません。被爆者の証言や、被爆建物や被爆者の残した物を手がかりに、現地で考えてほしいと思います」

制作:withnews・Yahoo!ニュース
取材:2021年11月
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