連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
withnewsとYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。(取材執筆・水野梓、映像制作・宮本聖二)
空を見上げると爆撃機がさしかかり、ピカッと光ったその「一瞬」のあと、街は真っ黒に......。火傷やけがでもだえ苦しむ人々に胸が詰まり、ゴーグルを外すと、そこは今の広島・元安橋のたもとです。VRやアプリといった最新のテクノロジーを駆使したり、被爆建物や樹木を案内して「記憶をつなぐ旅」に取り組むガイドたちを訪ねました。
広島・元安橋の近くに建つ被爆建物のレストハウスで待ち合わせたのは、NPO団体Peace Culture Village(PCV)のメアリー・ポピオさん。この夏から、VR(仮想現実)を使った有料ガイドツアー(外部リンク)を開催しています。
広島に原爆が落ちたとき、一体何が起きたのか、街はどう復興していったのか。体験した被爆者が徐々に亡くなってしまうなか、ゴーグルをつけて「タイムスリップ」したようなVRツアーの開催で、被爆者の記憶をつなぐ取り組みを続けています。
原爆投下の当日、レストハウスでは37人が働いていて、書類を探そうと地下室にいた野村英三さんだけが生き残りました。VRツアーは原爆の爪痕が今も残る地下室から始まります。
VRツアーをガイドするメアリーさんは、アメリカ・ボストン生まれ。隠れキリシタンについて学ぼうと大学2年生で長崎を訪れ、初めて原爆について知り「人生が変わった」といいます。大学卒業後、広島平和文化センター元理事長のスティーブン・リーパーさんと共にPCVを設立しました。
元安橋そばの縁に座ってゴーグルをつけます。被爆前の元安橋が目の前に現れました。360度、すべてに当時の光景が広がり、タイムスリップしたような感覚です。
自分の周りの人たちが空を見上げるので、自分も同様に上空を見上げると、B29が飛来。原爆が落とされた「一瞬」を仮想体験します。それがVRだと分かっていても、炸裂した瞬間は思わず声が漏れました。
メアリーさんは「被爆者が亡くなっていき、体験した人がいない未来の準備をしなければいけない。テクノロジーは被爆者のストーリーを身近に感じる道具として大切だと思っています」と話します。
元安橋から川沿いに、徒歩数分ほどの相生橋に向かいます。Tの字の形をした相生橋は投下目標になりました。
原爆投下の3日後、相生橋に路面電車が通った――。そんな解説のあと、実際に路面電車がガタゴトと通っていきました。過去が今につながっていることを五感で実感しました。
広島市内では、ピースボランティアなど無料のガイドツアーもありますが、メアリーさんの団体PCVでは有料ガイドの開催が特徴です。
「『平和を作る仕事』を提供したいという思いが強い。平和活動のサステナビリティーにつながる大事な取り組みだと思っています」
「自分の人生のミッションと平和をつなげ、未来をつくるためにヒロシマの過去を振り返って、一緒に楽しく未来を作ろうというメッセージを大切にしています」
次に公園を案内してくれたのは「ヒロシマピースボランティア」の多賀俊介さん。1950年生まれで、原爆投下直後の惨状を直接は目にしていません。教員を退職後にボランティアを始めました。
多賀さんは「時々『ここは公園だったから被害が少なかったんですか?』とおっしゃる方もいる。ここは『中島地区』といって4000人ほどが住んでいた広島有数の繁華街だったんです、と伝えて『暮らし』が壊滅してしまったという想像をしてもらっています」と話します。
多賀さんの父は当時、数十キロ離れた呉にいて直接の被害は免れましたが、爆心地周辺に姉と妹が嫁いでいたため、投下翌日に周辺を探しにやってきたそうです。
いまだにお姉さんの行方は分かっていません。小学校5年生の時には、叔母に連れられて初めて平和記念資料館を訪れたといいます。
「怖くなって途中で出ていってしまったんです。その体験が原点になっています。今も資料館で『見たくない』『グロい』と言う子どもたちはいるんですが、それだけで終わってほしくないなと思っています」
多賀さんは当時のようすや、住民たちが使っていた品々の写真を見せながら公園内を案内します。
かつてそこに「暮らし」があり、自分たちと同じようにひとりひとりが住んでいたことを感じてほしいからです。
多賀さんがよく案内するのは、資料館にほど近い場所に移植された被爆アオギリ。
ここで被爆体験を伝えていたのが沼田鈴子さん(享年87歳)。被爆して左足を失い、婚約者も亡くなりました。命を絶とうとさえしましたが、アオギリの芽を見て励まされたような思いがして、自身の体験を語り続けました。
沼田さんとともに活動した多賀さんは「被爆樹木や被爆建物が少しでも残っているから伝わることがある」と話します。
多賀さんが必ず案内するのは、慰霊碑から歩いて数分のところにある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」です。子どもたちには、過去に日本が朝鮮半島を植民地支配していたことを分かりやすく説明します。
原爆を落とされた「被害」だけではなく、日本の「加害」も見つめようと考えているそうです。
現地を巡ることで、多賀さんは「多くの人が生活していて、亡くなった場所だと実感してほしい。歩きながら『自分だったら何をしたか、どんな目に遭っただろうか』と自分に引きつけて考えてほしい」と話します。
被爆建物や樹木が残る意義を、被爆者は「物が消えたら心からも消えてしまう」と表現したそうです。
「もし原爆ドームがなく、一帯がビル街になっていたらどうだったでしょう。被爆の記憶はつながったでしょうか。私も被爆の体験はありません。被爆者の証言や、被爆建物や被爆者の残した物を手がかりに、現地で考えてほしいと思います」
制作:withnews・Yahoo!ニュース
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