連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
withnewsとYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。(取材執筆・水野梓、映像制作・宮本聖二)
かわいいウサギがエサをねだろうと集まってくる――。そんな動画がSNSにアップされたことで、一躍「ウサギの島」として人気が高まった大久野島(広島県竹原市)。長年、平和教育のガイドをする男性は「毒ガスを製造していた悲しい歴史があったことも知ってほしい」と話します。地図から消された島には毒ガス工場が置かれ、ウサギは自由に跳び回るのではなく「実験動物」でした。現在も残る貯蔵庫や発電所の跡を、ガイドの案内のもと巡りました。
広島県竹原市のJR忠海(ただのうみ)駅から歩いて数分。強い日差しにおだやかな海面がきらきらと反射する忠海港につくと、ウサギのマークがあしらわれた黒い建物が目に入ります。ここでフェリーの切符を買い、ガイドの山内正之さんと落ち合いました。
島まではフェリーで約15分とあっという間。船着き場を降りて進むと、木の根元や建物そばにウサギが2~3匹うずくまっています。ウサギを見かけた人からは思わず「ほんとにいる!」と声をあげます。
ピーク時には、1000匹以上のウサギが生息していたそうです。ウサギが観光客の足元に押し寄せる動画はSNSにアップされて話題を呼び、2017年には市外から36.2万人が島を訪れました。
現地でボランティアでガイドをしている山内さんは「『ウサギ島』と呼んでほしくはありません。観光PRには大切かもしれない。でも大久野島は国立公園であり、悲しい歴史を学べる場でもあります」と複雑な心境を明かします。
「大久野島から平和と環境を考える会」の代表である山内さんはこの日、明治学院大などの大学生たち20人ほどに島内の戦跡を案内します。
「ウサギがかわいいのは確か。でも、きょうは戦争の爪痕に集中して下さい」。まずは無料バスに乗って数分ほどの「毒ガス資料館」(19歳以上の入館料150円)で下車しました。
この大久野島に日本陸軍の毒ガス工場が置かれたのは1929年(昭和4年)。第一次世界大戦で各国が毒ガスを使用した反省から、毒ガス兵器の使用を禁止する条約が新たに結ばれました。
日本もベルサイユ条約やジュネーブ議定書に調印し、積極的に使用禁止に賛成の立場をとっていました。しかしその裏には、日本軍の毒ガス戦能力を高めるまでは毒ガス戦を避けたい狙いがあったようです。
欧米諸国の毒ガス戦の技術に追いつくため、1917年に東京に研究室が設置され、毒ガス研究が進められました。毒ガス製造所として全国各地の候補地の中から選ばれたのが大久野島でした。
1935年(昭和10年)ごろには島では、猛毒のイペリットやルイサイトなどが製造されるようになっていました。
日本軍が使った毒ガスの資料も展示されています。毒ガスは多くの外国人の命を奪いました。
大久野島では15年間で6616トンの毒ガスが製造され、これは何千万人もの致死量にあたります。戦後に島内に残っていた約3000トンが処理されました。
資料館から歩いてすぐの海が見える広場には、毒ガス工場で働き、被害を受けた人たちの慰霊碑が建てられています。
大久野島の毒ガス工場で働いたのはのべ約6700人。山内さんは「危険な毒ガス兵器を作るとは知らず、新型の化学兵器を作るぐらいの軽い認識だったそうです」と振り返ります。
ゴム製の防毒マスクや防護服などで覆っても、イペリットは隙間から浸透し、工員たちは次々に気管支や肺を壊していったといいます。
毒ガス資料館から徒歩5分ほど、ホテル「休暇村」のすぐそばには、毒ガス貯蔵庫の跡地があります。
さらに海側に回ると運動場が見えてきます。山中に分け入ると、毒ガスのタンクが置かれていた基礎部分が野ざらしになっています。
そこから5分ほど歩くと、島で最も大きな貯蔵庫の跡地に着きます。100トンもの毒ガスが入るタンクが左右に分かれた部屋に6基置かれていました。
内部が黒く焼け焦げているのは、戦後に毒性をなくすために火炎放射器で焼却したからです。残った毒ガスは土佐沖に海洋投棄されるなどして処理されました。
急な坂道を登っていくと、1902年に設置された「北部砲台」の跡地がみえてきます。
大久野島には、瀬戸内海の軍都広島や軍港呉を守るため、日清戦争後に「芸予要塞」が建設されましたが、使われず1924年に廃止されました。
その後、毒ガス工場が置かれ、朝鮮戦争の時には米軍が「火薬庫」を弾薬置き場に使用。山内さんは「地図から消され、3度戦争に利用された島」と表現します。
1周4kmほどの島は徒歩1時間ほど、休暇村でレンタルできる自転車で20分ほどでぐるっと回れます。
急な坂道を下ってフェリーの船着き場が見える海岸の方へ戻ってくると、廃墟と化した大きな建物が見えます。毒ガス工場の発電所の跡地です。
島には13~15歳の子どもたちも動員され、その数は約1100人。防空壕を掘ったり家屋を解体したり、毒ガス缶を運んだり......危険な作業にも従事しました。
この発電所では1944年からひそかに行われた「ふ号作戦」により、風船を飛ばしアメリカ本土に爆弾を落とす「風船爆弾」の気球をつくっていたといいます。動員された女学生は和紙をこんにゃくノリで貼り合わせていました。
島に動員された子どもたちも毒ガスの被害を受け、戦争が終わった後も病院通いを続け、苦しんだ人たちがたくさんいるそうです。
日が傾きはじめ、山内さんのガイドはここで終了です。
中学生の時にウサギを目的に訪れたことがあったという県立広島大3年生の橘高一姫さんは「現場を見ながら話を聞く機会ってなかなかありません。特に平和教育では原爆被害のことばかり学んでいたけれど、加害の事実や毒ガスの怖さを知ることができた」と言います。
学生を指導する高原孝生・明治学院大学国際学部教授は「広島や長崎を思い出す時、絵はがきの風景ではなく、『あの人がいる場所だ』『いま何をしているだろう』という身近さで思い返してほしい」と話します。
山内さんは、島は「無言の証人」だと指摘します。山内さんは「フィールドワークで実際に当時の悲惨な歴史を物語る遺跡を見ると、違った反応がある」と言います。
「ウサギの島のイメージで来る方もいて、見方はそれぞれ違ってもいい。でも、こんな『加害の歴史』の面を持つ島だということも知ってもらいたい」
山内さんのガイドは平和教育に限られていますが、「毒ガス資料館」や貯蔵庫跡・慰霊碑などに足を伸ばし、環境省が設置したパネルを読むだけで、感じることがあるのではないかと思います。
島の毒ガスの実験用に、ウサギ200匹も使われていたといいます。終戦時に処分され、現在、島に住むウサギたちはその子孫ではありません。
しかし「平和」だからこそ、ウサギは無邪気に人々にすり寄ってくる。その状況が本当に尊いものだと考えさせられます。
思わず顔がほころぶかわいいウサギと、毒ガスの戦跡......そのギャップは正直に言うとうまく表現できません。ただただ、いつまでもウサギをめでられる世の中でいてほしい。だからこそ記憶をつないでいかなければと感じました。
竹原・三原周辺の名産はタコ。ホテル「休暇村」のカフェエリアで食べられる「たこ天うどん」でおなかを満たしました
JR三原駅のコンビニで売っていた駅弁「たこめし」も具だくさんで美味です
休暇村の日帰り入浴施設では、ラドン温泉で島巡りの汗を流せます。島は自転車で1周30分、徒歩で1時間。太平洋戦争で「加害」「被害」の交差点となった温泉・銭湯を訪ねたエッセイ本『戦争とバスタオル』(安田浩一・金井真紀/亜紀書房)でも紹介されています。
広島市からは、広島バスセンターから忠海駅まで高速バスで1時間40分。1泊2日のバスツアーなら、原爆ドームや資料館を見学後、翌日に向かうこともできます
忠海駅から徒歩5分ほどで忠海港フェリー乗り場へ。船着き場のそばで切符を買います。
広島空港や三原駅でレンタカーを借りるのも便利です。
旅の予定を立てる場合は、ひろしま竹原観光ナビの「モデルコース」が参考になります
制作:withnews・Yahoo!ニュース
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