今から78年前の5月11日。宮崎市の中心部に爆弾が投下され、下校中だった小学生12人の尊い命が奪われました。「あんな激しい音と振動は生まれて初めて」。爆撃を目の当たりにした1人の男性は当時小学4年生でした。鼓膜が破れそうなほどの爆音と体が浮くほどの衝撃だったと語ります。今を生きる人たちに同じ経験をしてほしくないという思いを胸に、鮮明に焼き付いている当時の記憶を語り継いでいます。(テレビ宮崎)
1945年5月11日、下校中だった宮崎師範学校男子部附属小学校(当時国民学校)の児童が爆撃に遭い12人の尊い命が奪われました。附属小学校の正門には当時の爆撃で亡くなった12人の児童の名前が刻まれた「いとし子への誓い」碑が設置されていて、登校してきた児童たちは毎朝手を合わせています。
附属小学校では毎年5月11日に「いとし子命の集い」を開き、平和の大切さについて学んでいます。
今年の「いとし子命の集い」で講師を務めたのは、当時小学4年生で爆撃を目の当たりにした田崎嘉男さん88歳です。小学校の児童達に戦争の悲惨さや平和の尊さについて当時の経験を生き証人として語り継いでいます。
「授業中に事務の先生が来て、空襲警報らしいですよと言った」
なんの前触れもなく突如として伝えられた空襲警報の連絡。何が起きているのか分からない児童たちは先生の指示で集団下校の準備を始めました。爆撃にあったのは学校を出発した直後のことでした。
どんよりとした曇り空に爆音が響きわたりました。
「ドカンドカンと音がして、(先生が)みんな伏せろ~って言って叫んだ。みんなそれぞれ伏せたんですけど。ちゃんと親指で耳をおさえて鼓膜が破れないように、そして指で目が飛び出さないようにおさえて、そして腹は地面から10cmあけて伏せろと訓練を受けてたので。あんな激しい音と振動は生まれて初めて受けて」
鼓膜が破れそうなほどの爆音と体が浮くほどの衝撃を受けた田崎さん。降ってきた土砂で土まみれになったということです。
爆弾は田崎さんから30mほど離れた場所に落下。落ちた直後は後ろを振り返る余裕もなく、必死に逃げました。近くを下校していた同級生2人を含む12人が犠牲なったということを知ったのは、この日から一週間ほど後のことだったそうです。
一緒に遊んでいた友人など身近な人が亡くなったという知らせを聞いて、驚きや悲しみを感じると同時に激しくなる空襲への恐怖心も一層強くなりました。
この日を境に生活が一変。空襲も激しさを増し防空壕へ出たり入ったりの日々が続きました。これまで基地への攻撃が続いていましたがこの頃に大型爆撃機B29による無差別の爆撃が始まったと思われます。
「防空壕の大きさは畳2枚くらいですかね。4人くらい入ってた。庭に穴を掘って。素人づくりで、おやじは勤めとったから、おふくろが一人で作ったんですよ」
当時、父親と母親と兄の4人暮らしだった田崎家。父親は会社に勤めていたため、家のことは全て母親が行っていたようです。
食べ物も次第になくなり、今では考えられないような食生活を送っていたということです。
「食べ物はないし、親が大変だったろうと思います。私たちを食べさせるのに。その時は芋のツルとかかぼちゃのツルを味噌汁で飲んだ。あの時食べて美味しかったと思ってかぼちゃの茎を食べてみたけど、もうまずくてこんなの食べられんわと思って。店も無いし、だからちょっとした空き地や庭にも畑を作ったりして、家庭菜園みたいなやつですね。今でいうと家庭菜園というと和やかなゆとりのある感じですけど、そんなもんじゃなかったですよ」
空襲の激しさが増すにつれ、授業もまともに受けることができなくなりました。
「学校は危ないということで分散教育というのがあって、15、16人ずつ大きい家に集まって、昔の寺子屋みたいな授業だったんです。そしたら空襲も激しくなってそれもやめになりました。毎日家から出たり入ったり防空壕から出たり入ったりして」
その後の空襲で当時の附属小学校の校舎は焼失しました。
「ラジオじゃいつも勝った勝ったと言って、何機撃墜したとか戦果ばっかり聞いてましたから、勝ってるもんと思って。勝ってるにしてはえらい爆撃が多いと思ってて。しかしそれを口にしたら親から厳しく言われてました。みんな感じていたと思いますよ。おかしいですよ、勝ってるのに毎日空襲ですもん」
「亡くなった人の家族からみれば不謹慎と思われるかもしれませんけど、これで空襲が無くなったっていう感じでした」
附属小は焼失していたので終戦後もしばらくはクラスの友達とも離れ離れで授業を受けていました。再び小学校が建設されたのは、終戦から約2年後のことです。
「自分たちの学校ができたという喜びですね。今の子供達からみたら、何やこんな木造と思うかもしれませんけど、あの時は上等だと思ってました」
今もなお続くロシアによるウクライナ侵攻についても、戦争経験者としてもどかしさを訴えています。
「かわいそうで。どうかならんもんかと思いますね。国連とか安全保障理事国とか国際人権委員会とかあるけど全く今機能していないんじゃないかと思います」
武器を援助するなど戦争を後押ししているような現状に対して、田崎さんはもっと戦争を止める方向に働きかけてほしいと切実に願っています。
年々戦争経験者も少なくなっていき当時の経験を現代に語り継げる人が少なくなっていることに田崎さんは不安を感じています。戦争を知る身として出来るかぎり後世に伝えようと語り継ぐ活動を続けていきます。
「もう友達やらもだんだん亡くなっていくんですよね。だんだん体験者がいなくなるということです。家じゃ眼鏡をどこやったか時計はどこやったかなと探す老人になっているけど、78年前の空襲のことはしっかり頭の中に焼き付いてるんですね。もう2度とこんな経験を若い人達にさせたくないという気持ちです」
田崎さんは今後も生き証人としてあの日の経験を話し、戦争の悲惨さや平和の尊さについて、戦争を知らない世代に語り継いでいきます。
取材:テレビ宮崎
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