「父ちゃんは爆撃で後頭部をやられて即死だった」。太平洋戦争中、13歳の少年は1人で親元を離れて沖縄から宮崎に疎開。約2年半後、沖縄に戻った彼を待っていたのは、廃虚と化した故郷と家族や友人の死でした。大人になり、少年時代を過ごした宮崎で、1人の男性と出会いました。2人は戦争体験を後世に残すため、交流を続けています。(テレビ宮崎)
太平洋戦争末期、住民を巻き込む激しい地上戦となった沖縄では、20万人以上が亡くなりました。この戦闘が本格化する前の1944年、戦火を逃れるため多くの子どもたちが沖縄を離れました。
當間栄安さん(92)は当時13歳、浦添国民学校高等科1年生の時に沖縄県浦添村(うらそえそん・現在の浦添市)から宮崎県岩脇村(現在の日向市)にある平岩国民学校へ疎開しました。
「宮崎にいたのは2年と7カ月くらい。同級生は頭が良くて中学校に合格したから鉄血勤皇隊(14~16歳の学徒による少年兵部隊)で死んだ。ライバル2人。僕は耳が悪いから生き残って宮崎に行ったわけだ。周りの人から見たら臆病者となった、逃げるんだから」
疎開前は浦添村の仲西飛行場の建設作業を手伝っていて、沖縄を裏切るような気持ちと安堵が交差した複雑な心境で疎開したという當間さん。家族は、父と母、兄、妹、弟、そしておなかの中の赤ちゃんを含めて7人でしたが、学童疎開で宮崎に向かったのは當間さんだけでした。出発する前日は旅館に泊まり、父と兄と面会したそうです。
「父は浦添村の役所に勤めていたから、疎開のことや軍の情報をよく知っているわけさ。これが最後の面会と最後の言葉だが、1週間前に船が沈められたから、あんたは常に甲板の上で寝起きしなさいって。ずっと船の上にいたわけさ」
1週間前に九州に向かっていた「対馬丸」は、途中でアメリカ軍の潜水艦の魚雷を受け、800人近くの子どもが犠牲になりました。當間さんも、途中で魚雷が船の10m先を通過するのを見て、恐怖を感じたと言います。
「上級生だからなんでも優先さ、魚雷見るのも潜水艦見るのも。びっくりしたなあ。あの頃の自分は」
無事に宮崎に到着した當間さん。疎開したことで命拾いしたと振り返ります。
「平岩は農家だから(食料が)豊富にあったよ。芋もあるし、メリケン粉もそばもあるし、それから芋の葉っぱも日常的に食べていたわけだ。大変感謝してるよ。疎開してよかった」
一方で、家族の安否が気がかりでならなかったそうです。
「ラジオニュースが毎日発表するからよくわかっていた、どんな状況って。(米軍が)今日は浦添に来ている。次は......と。これはもう負け戦だと思っていた」
高等科2年になると、宮崎への空襲が激しさを増していきました。
「空襲警報が鳴ったら、僕1人は防空壕(ごう)に隠れない。校長室で待っとけと言うわけ。伝令少年として隣の集落に伝令をする役目だった。毎日戦闘機から弾が落ちて、それをずっと見ていたわけだ。3カ月間校長と一緒に飛行場の爆発を見たが、飽きもしない、花火みたいに爆発するから、恐ろしさは全くない。爆弾が落ちるのを見て、これはもう悲惨にみんな死んでしまうなと。
玉砕、玉砕と騒いでいるから沖縄も玉砕かもしれんなと思って覚悟していた。帰ったらうちの父ちゃんが本当に死んでいた。アメリカは無差別爆撃。うちの父ちゃんも落ちた時に(首を)やられて即死だったんだ」
終戦直前、母と妹、弟は一般疎開で宮崎県の日之影町で過ごしていたことが分かり、當間さんは学童集団疎開から離れて家族と暮らし始めました。空襲が続き、恐怖心と辛さが募る中、親元に帰れてほっとしたと同時に、空襲がない日之影町に来ることができて助かったと深く安堵したそうです。
終戦後、15歳になった當間さんが戻って目にした浦添は、廃虚と化していたと話します。浦添は沖縄でも最大の激戦地で、村民の半数近くが犠牲になったのです。学徒隊となった友人は、故郷の浦添城跡の激戦に巻き込まれ戦死していました。
父の死は、この時に知りました。「疎開前の旅館での会話が最後の言葉になってしまった」という思いが強く押し寄せ、信じられなかったそうです。頼りの父が亡くなり絶望を感じる一方で、兄は海軍に志願をして長崎県の佐世保に派遣されていたので、沖縄戦に巻き込まれることなく生き残っていました。
「(兄は)終戦になったら家族のもとに帰ってきた。それで僕は高校や大学に行けた、兄貴のおかげ」
大学に進学した當間さんは、その後高校教師としての道を歩みました。
そんな當間さんが、大人になって出会った人がいます。疎開していた日向市に住む甲斐誠二さんです。當間さんと甲斐さんは年が6つ離れていて、戦時中は交友がありませんでした。沖縄が日本に復帰し、当時の疎開児童が日向市を訪問したことがきっかけで出会い、「子供の頃の戦争体験を後世に伝えたい」という強い思いから交流を続けてきました。
そして3年前、沖縄県浦添村から宮崎県岩脇村に学童疎開した人の体験が綴られた冊子が、完成しました。
甲斐さんは、幼稚園から小学2年生にかけて戦争を経験。疎開児童の交流会で、事務局長を務めています。
「市内のことを90%以上話せる人は4~5人いるでしょうか。(話せる人は)この間亡くなったから、もう語り部がおりません。誰か後継ぎをと探しちょっところ」
沖縄から疎開児童がやって来たのは、甲斐さんが小学1年生の時でした。
「(小学校の)隣の幼稚園に沖縄の人が来たと聞いた。1年生が2人きた、男の子が。私としては記憶がない。ほかの人もあまり記憶がない。なぜかというと、戦争中だから学校で会う暇がないんですよ。来てもすぐ『帰れ』『防空壕に入れ』と言われ、ゆっくり楽しくする時間はないままです。(覚えているのは)彼が隅っこで寒い思いしたことだけ」
少しだけ内地で勉強すると思って疎開してきた子供たちは、夏服しか持って来ておらず、冬になると寒い思いをしたそうです。
甲斐さんが通っていた平岩国民学校は飛行場が見える位置にありました。
「飛行機は飛んでくるし、爆弾がドカンという音は聞こえる。怖いとは思わんですわ。泣く子はいなかった。負けるなよ、アメリカやっつけてくれよ。勝ってくれよと。もうそれだけ」
1945年、新学期が始まると、4年生までは村で分散教育になりました。
「なお彼(疎開児童)と会えない、終戦までは。仲良く遊んだな、楽しんだなというのはないままでお別れになる。あの子とけんかしたとか、思い出はないですよ」
かつては交流がなかった甲斐さんと當間さん。
戦後は平和への思いを胸に、互いの地元を訪問して交流を続けてきました。今は離れた地で中学生へ戦争体験を語る活動を行っていますが、高齢になり最近は電話で声を聞くだけだそうです。
そこで、甲斐さんから預かったメッセージビデオを當間さんに見てもらいました。
「こういう機会で会うことができてうれしいですけど、語り部の仲間は亡くなっていくばかりです。涙が出ます。浦添の子供たちが8月においでになります。面白いもので、この年になってくると疎開生が来たという気持ちになる。思い浮かべながら当時のことを説明・案内するのは非常にやりがいがある。92歳のあんちゃん、いつまでも元気で!」
メッセージを受け取った當間さんは、継承への思いを語りました。
「戦争というのは、こっちが嫌でも相手の都合で攻めてくる。すなわち大人のいじめ。一人ひとりの戦争体験を集めて、書物にして残す必要は大変ある。今のうちに語らないと本物は語れない。自分は過去にこんな苦しみをしたんだよと、ただで死にたくない。それが遺言、または伝達になるわけ。(戦争体験の継承者として)今宮崎で頼りにするのは彼しかいない。お互いに頑張っていきましょう」
甲斐さんは、馬鹿な戦争だったと繰り返しました。
「戦争で多数の兵隊さんが亡くなった、じいちゃんもいとこもなくなった。やっぱり馬鹿な戦争はいかんというのが胸にしみました。戦争の悲惨さ、馬鹿な戦争をした認識を、終戦後の平和な日本を過ごした人たちに伝えるのは難しくなってきた気はします。(敵も味方も)どちらも壊されてるんですよ。武器の壊しあいじゃない、人の殺し合いが戦争なんですよと。伝わってくれたらいいなと強く思っています」離れていても、お互いの頑張りを励みに、子供たちに戦争を語る。2人の活動はこれからも続きます。
制作:テレビ宮崎
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