2022年7月、宮崎市で「特攻基地資料展」が3年ぶりに開催され、多くの人でにぎわいました。宮崎には特攻の資料館がないため、出撃した特攻隊員が家族に宛てた手紙など貴重な資料の数々は、展覧会の12日間以外はほとんど倉庫で眠っています。「資料が廃棄されてしまえば、この人たちはいなかったことになる」。ほぼ一人で特攻資料を収集し続ける男性は、宮崎の特攻の歴史を後世に伝えるべく、常設展示の必要性を訴えています。
2022年7月、宮崎市のショッピングセンター、イオンモール宮崎で開催された宮崎特攻基地資料展「僕等の生きた証」。新型コロナの影響で3年ぶりの開催となり、12日間で約8000人が来場しました。
宮崎の玄関口「宮崎ブーゲンビリア空港」はかつて海軍の飛行場で、特攻隊が出撃した基地でもありました。この基地から出撃した特攻での死者は、判明しているだけで131人。通常の航空攻撃などでも多くの若者が飛び立ち亡くなっています。
資料展では、ゼロ戦のものと思われる車輪や県内で撃墜されて戦死したアメリカ兵の遺影、宮崎から出撃した特攻隊員が家族に宛てた手紙など、初公開のものを含む約150点の資料が公開され、会場は貴重な資料を一目見ようと多くの人でにぎわいました。
この資料展は、特攻隊の生存者や遺族、宮崎市赤江地区の住民などで作る宮崎特攻基地慰霊祭実行委員会が2016年から開いています。監修を担当したのは、宮崎の戦史研究家の稲田哲也さん(51)です。展示資料のほとんどを自ら収集し、説明のパネルを作成しました。
「戦争というものを近くで感じていただきたいなと。それによって戦争を無くすためには何ができるのかなというのを個人個人が考えるきっかけにしていただければありがたいなと思います」
戦争の悲惨さを訴えかける資料の数々ですが、大勢の人の目に触れる機会は年に一度のみです。資料展を開催する12日間以外は、ほとんど宮崎市内の倉庫で眠っています。稲田さんは、この現状に危機感を抱いています。
「今は資料を管理する人がいるから良いけど、僕もいなくなり管理する人もいなくなったら、恐らく廃棄されちゃいますよね。この人たちって、いなかったことになるんですよ。今は年に一回だけでも展示ができる。でも、もしこのまま資料館も何もできなかったら確実にこれって失われる」
戦後77年がたち、直接戦争を体験した「語り部」が減り続けている今、貴重な資料が失われることは、戦争の歴史の風化につながります。
この夏、宮崎市の清山知憲市長が、初めて資料展を訪れました。
「こんなに宮崎に資料や写真が残っているとは思いませんでした。子どもたちは修学旅行で(鹿児島県の)知覧に行きますけど、負けず劣らずいろんな資料があるので学習の場として活用いただけるんじゃないかなと思いました。
各地に散らばっているこうした資料を常設展示するためのスペースや予算といったものは引き続き課題ではあるんですが、もちろんあった方がより平和学習に活かせると思うのでさまざまな角度で検討したいと思います」
宮崎にも特攻隊が出撃した基地があり、そこから出撃した若者が大勢亡くなったこと。撃墜されて亡くなったアメリカの若者がいたこと。未来につなぐために、宮崎に残る戦争資料を生かす場所が必要だと稲田さんは訴えています。
「宮崎でもこれだけの特攻の出撃があった、これだけの爆撃があった。まずは自分の生まれ育ったこの宮崎の歴史を知ってもらうというのが、未来に生きる子どもたちのためになるのではないか。そのためにはやっぱり恒久的な常設展示の資料館をぜひ作っていただけたらなと考えています」
制作:テレビ宮崎・ Yahoo!ニュース
取材:2022年7月
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