「われわれが行かないとたくさんの人が殺される」終戦の日に出撃するはずだった特攻隊員

1945年8月15日、19歳だった庭月野英樹さんは特攻隊員として出撃するはずでした。「われわれが行ってやっつけなければ、空襲でたくさんの人が殺されるんだ」。同期生はほとんどが戦死し、自分も当たり前に死ぬと思っていました。あれから77年、庭月野さんは語り部として戦争体験を伝え続けてきましたが、「まともに話ができるのも今年ぐらいまで」と引退を口にしています。

直前までいた部隊が全滅 同期生と最期の別れ

宮崎市に住む庭月野英樹さん(96)は1943年、17歳で長崎県の航空機乗員養成所に入りました。52人の同期生は、多くが戦死しています。

「とにかく走らされて、野球のバットで尻をたたかれて。連帯責任というやつです。(同期生との絆は)本当に兄弟以上でしたね。たった11カ月でしたけど」

同期生との写真。印がある人は戦死、点がついている人は特攻で亡くなったという 同期生との写真。印がある人は戦死、点がついている人は特攻で亡くなったという

翌年4月、沖縄海軍航空隊に配属されました。そして10月、沖縄戦につながる「10・10空襲」を目の当たりにします。

「戦闘ラッパが鳴り響きました。いやー、初めて聞きました。東の方から沖縄の空港に向かって突っ込んできたどす黒い飛行機がですね、とにかく不気味でしたよ。陸上に落とされた飛行機を見ましたね。落ちる時にあちこち破れて散りぢりになってました」

アメリカ軍の延べ1400機もの艦載機が平穏だった沖縄を襲いました。9時間に及ぶ空襲で那覇市街地の9割が焼失し、民間人を含む600人以上が犠牲になりました。

飛行機の整備を待っていた庭月野さんは、エンジン音でアメリカ軍の接近に気が付きませんでした。攻撃を受けてから、あわてて退避壕(ごう)に飛び込み助かったといいます。

戦時中の庭月野さん 戦時中の庭月野さん

1945年3月に石垣島の部隊に派遣されると、まもなくアメリカ軍が沖縄に上陸しました。庭月野さんが直前までいた沖縄航空隊は全滅でした。

「同期生の花田というのが空港まで見送りにきて『長いことお互いに世話になったな。これがしかし別れだろう』と言っていましたら、その通り別れでした。いい男でした」



終戦の日「8月15日」に出撃命令

帰るべき本隊を失った庭月野さんは、1945年5月に台湾の部隊に編入されます。爆弾を積んだ航空機で必死の体当たりをする、「特攻」の部隊でした。

「夜間飛行の訓練ばかりしていましたね。われわれが行ってやっつけなければ空襲でたくさんの人が殺されるんだと。俺たちは自分たちのできることをやるしかないという感覚でしたよ」

出撃に備えて訓練を積んでいると、最新鋭の偵察機「彩雲」を運用する千葉県の海軍木更津基地へと転勤を命じられます。ここもまた、本土決戦に向けての特攻隊でした。

「この飛行機の特攻隊と言ったら、俺がやらなくて誰がやるんだ、という気持ちになりましたね。これでやられたらやられてもよい。俺の棺おけは立派なもんだと思っていました。特攻隊と言いますと、棺おけですから。怖いという気持ちはありませんで、行くのが当たり前だという風に思っていました」

養成所時代の庭月野さん 養成所時代の庭月野さん

庭月野さんに出撃命令が出たのは「8月15日」でした。

「天皇陛下の放送があるからそれまで待て。それを聞け、と。ラジオを号令台の上において、周りに腰を降ろしてみんなで聞きました。天皇陛下の『忍び難きを忍び』という言葉だけは覚えてますよ。木更津から飛行機で飛んで帰ってみると、もうほとんど丸焼けでした。街の中心は全部焼野原、街という街は全部焼けていましたから」

終戦から8日後、8月23日に部隊は解散。庭月野さんの戦争は終わりました。

「隊長が特攻隊を解散すると言ったので、とにかく家に帰ることしか考えていませんでした。家に着いたのは夜中でした。汽車を降りて相当歩きましたから。夜中に着いたら母親が起きてお湯を沸かしてくれたので汗を流して。おやじが起きてきて『おまえは本当に俺の息子か』とつまみました」



「19歳で死ぬつもりだった」語り続ける理由

戦後、庭月野さんは航空大学校の教官などを経て、語り部活動を続けてきました。

語り部として体験を語る庭月野さん 語り部として体験を語る庭月野さん

「19歳で死ぬつもりでした。神様がなんのために残したか、やっぱり自覚をせんといかんと思ってるんですけどね。こういう人たちがいましたよということを世の中に伝えていかないといけないなと思ってます。当時はこんなにいい世の中が来るとは思っていませんでした。ものも豊かで人の心も豊かだし。戦争はしちゃいけませんね、二度とあってはならないこと。こんな良い世の中はずっと続いてほしい...」

2018年には、旧日本軍の攻撃により日向灘に墜落したアメリカ軍の爆撃機、B29「サルボサリー号」のただ一人の生存者、ジャック・キャノンさんと面会しています。

「敵という感覚はありませんでしたね。戦争というのはその時の国の状態で始まったことで、おんなじ搭乗員だなと思いましたよ。同じ人間だなと」

宮崎市でアメリカ兵の慰霊祭が開かれた。前列左から2番目が庭月野さん、右隣がジャック・キャノンさん 宮崎市でアメリカ兵の慰霊祭が開かれた。前列左から2番目が庭月野さん、右隣がジャック・キャノンさん

昨年、ジャックさんは96歳で亡くなりました。日を追うごとに戦争経験者が減っていく現実に寂しさを感じながら、庭月野さんは講演会など大勢の前での語り部活動を引退しました。

「90代の半分を過ぎたので、まともに話ができるのも今年ぐらいまでじゃないでしょうか? (戦争体験者は)もうほとんどいなくなりました。やっぱり寂しいですよ」

制作:テレビ宮崎・ Yahoo!ニュース
取材:2022年7月

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