宮崎の玄関口「宮崎ブーゲンビリア空港」。毎年冬にはプロ野球のキャンプでにぎわい、南国情緒を満喫したいと大勢の観光客がやってきます。ここはかつて海軍の飛行場で、特攻機が出撃した基地でもありました。
この基地から出撃した特攻での死者は、判明しているだけで131人。双発の爆撃機「銀河」が特攻機として沖縄近海の連合軍艦艇に向けて飛び立ち、1機の体当たりで3人の搭乗員が命を落としました。通常攻撃などでも多くの若者が飛び立ち亡くなっています。
宮崎空港の前身は、太平洋戦争を見据えて1941年4月に建設が開始された「海軍航空宮崎基地」(宮崎市)です。この事実は地元でもあまり知られていません。
1945年3月末に沖縄戦が始まると、宮崎など南九州各地の基地が沖縄攻略の脅威となるとして、連合軍は激しい空襲を行いました。そのうち、マリアナ諸島から飛来したB29による爆撃は宮崎の市街地に及び、5月11日集団下校の小学生16人を含む21人が命を奪われました。
宮崎空港の近辺には、今も軍事基地としての名残が残っています。空襲から戦闘機や爆撃機を守るための掩体壕(えんたいごう)と呼ばれるコンクリート製の施設6基などが残っています。大きいもので幅30m、奥行きが25m、高さは9mもあり、77年たった今では、草木がおおっていて古墳のようにも見えます。
滑走路の建設には、当時の国民学校生(小学生)や中学生、女学校生が動員されました。彼女たちの証言が残っています。
「女学校があった広島通りから空港まで、毎朝みんなで歩いていました。竹で編んだ"もっこ"に石を乗せて運びました」
「作業は、それはもう大変でした。夏から冬まで。戦争は絶対勝つと思ってましたからね。だから一生懸命頑張りましたよね、子供ながらに。一人だけだったら我慢できないけど、みんなが同じ状況だから...」
宮崎空港周辺に遺された掩体壕や弾薬庫などの戦争遺構は、これまでほとんど人の目に触れることなく放置されてきました。県内の小中学校は例年、鹿児島県の知覧特攻平和会館で平和学習をしてきたためです。
しかし2020年、新型コロナウイルスの影響で県外を訪問できなくなったことで、旧宮崎基地周辺の戦争遺構が平和学習の場として選ばれました。2021年には、70の小中学校の7000人が見学をしました。
この日は、町立都農中学校の生徒が訪れました。案内をするのは宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会のボランティアです。
「掩というのはものを覆う、体は飛行機のこと、飛行機を覆う穴で掩体壕といいます。この掩体壕は当時誰が作ったでしょう。中学生です。今ここにいる生徒のみなさん(と同じ世代)が(本来の工事作業員とともに)掩体壕を作るために集められました」
生徒たちは、掩体壕や空襲の話に真剣に耳を傾けました。
「小学生から中学生までいろんな子たちが学校にも行かずに、国のため、戦争のためにしていたんだなということを学べてよかったです」
「戦争は世界で二度とやってはいけないと思うし、みんなが安心安全で何も困らないような世界になってほしいなと思います」
こうした活動が後押しとなり、宮崎市は2021年に私有地にある掩体壕1基を予算化して取得、保存することにしました。
宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会の副会長・後藤徹夫さんは、これから若い人に活動を引き継いでもらいたいと考えています。
「ここが戦場だった、多くの特攻隊員たちが最後の地として飛んでいったということをじかに見てもらうことで、子どもたちはより理解できると思っています。ゆくゆくはガイドを育成して、私たちが退いた後も遺構を伝えていってもらいたいと思います」
制作:テレビ宮崎・Yahoo!ニュース
取材:2022年7月
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