1945年3月10日の東京大空襲は、多くの子どもたちから家と家族を奪いました。そうした子どもたちの多くは、戦争孤児として食べ物と住まう場所を求めてさまようしかなく、中には、冬の寒さと飢えのために命を落とす子どももいました。一方、そうした子どもたちを救おうとした人々もいました。しかし、多くの孤児たちは、守ってくれるはずだった人々を失ったことによってもたらされた苦しい日々を歩まざるを得ませんでした。しかも、彼らはそのことを語ることはほとんどなく、私たちも目を向けることもなく70年あまりの歳月が経過しています。
戦争孤児となった人々、保護した人々を訪ね、あの時一体何が起きていて、人々はその後の日々をどう生きたのかを、「東京新聞」との共同取材・制作で伝えます。
この動画には遺体の映像が出てきます。注意してご視聴ください。
◇上野の地下道。毎日、誰かが亡くなっていた=鈴木賀子さん
一夜で約10万人の命を奪った東京大空襲から、2019年3月9日で74年。空襲で焼け残った上野駅の近くにある地下道は戦後、家や家族を失った戦争孤児らであふれていた。国の調査などでは約12万人が孤児となり、地下道には千人以上の孤児がいたとされる。
「毎日のように誰かしら亡くなっていました。皆、栄養失調ですよね」。空襲で母親と姉を失い、各地の親戚宅をたらい回しにされた埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)も、上野地下道での生活を余儀なくされた。ここでの体験を、ずっと語ってこなかった。
餓死者が続出した地下道。鈴木さんも一緒にいた弟と2人、飢えに苦しむ。駅の近くのヤミ市で食べ物を盗み、口に入れて逃げた。仲間の孤児が教えてくれた「手口」。生きるため、やむを得なかった。
「でもね、必ずつかまるんですよ。ボコボコに殴られました。私たち浮浪児だから、死のうが生きようが、大人はそんなことおかまいなしでした」
つらい記憶が残る上野駅は、戦後70年以上がたった今も近づくのがはばかれるという。「東京大空襲は、たった2時間で10万人以上の犠牲を出した。なんであのとき戦争をやめなかったのか。私たちの怒りをどこにもっていけばいいの。戦争は私たちの代だけでたくさん」
◇孤児たちのため 戸籍も与えた「母」=石綿裕さん
上野で困窮する孤児を見るに見かねて、自宅を開放し、彼らを保護してきた施設もある。東京都中野区に今も残る児童養護施設「愛児の家」だ。1989年に92歳でなくなった故・石綿さたよさんが食料を自ら工面し、一時は百人を超える孤児を保護した。
さたよさんとともに上野で孤児を保護した三女の裕(ひろ)さん(86)は「母はただただ、子どもがかわいそうだという思いで『うちに来る?』って一人ずつ連れてきたのです。でも、連れてくると、みんなシラミだらけ。髪は脂ではりつき、体はあかで真っ黒でした」と振り返る。
劣悪といわれた公的な保護施設に、多くの孤児が強制収容されていた時代。愛児の家では、さたよさんが孤児たちの母親の代わりになって面倒を見た。戸籍どころか生年月日、名前さえもわからない孤児も少なくなく、さたよさん自らが戸籍などを与えていた。
◇命の差別 納得できない 国の謝罪を求める元孤児=吉田由美子さん
東京大空襲で両親と生後3カ月の妹を失い、孤児となった茨城県鹿嶋市の吉田由美子さん(77)。「一人でも多くの人に戦争を知ってもらいたい」と、空襲体験の語り部としての活動を続ける。国に謝罪と損害賠償を求めた東京大空襲訴訟の原告に加わったが、訴訟は2013年に敗訴が確定した。元軍人らに総額60兆円が補償されているのに、民間人に対する補償はたなざらしのまま。実現の見通しは立たない。
「国は謝らず、軍人軍属と私たちの命を差別している。納得できない。私たちの戦争は終わっていないのです」と吉田さん。終戦から74年を迎える今も、謝罪と補償を求め、国と闘い続ける。
制作:東京新聞 ・ Yahoo!ニュース
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