特攻とは何だったのか 若者を死に向かわせた作戦

生きては帰れない「特攻」

特攻とは、搭乗員が乗った軍用機や小型艇、潜水艇で連合軍の艦船に体当たりする攻撃です。太平洋戦争末期に日本軍が組織的に行いました。決して生きて帰ることのないこの戦い方は、多くの若者の命を奪い、攻撃を受けた連合軍の将兵たちに圧倒的な恐怖を与えました。特に航空特攻は、戦後77年たった今も「KAMIKAZE(カミカゼ)」として世界で語り継がれています。

1945年3月に始まった沖縄戦では大規模な特攻を繰り広げ、その出撃基地は鹿児島県、宮崎県、熊本県といった南九州に集中しました。

南九州の主な特攻出撃基地(図解:EJIMA DESIGN) 南九州の主な特攻出撃基地(図解:EJIMA DESIGN)

なぜ日本は特攻に踏み切ったのか

太平洋戦争は1941年12月8日、日本軍がイギリス領マレー半島とハワイ・真珠湾を奇襲攻撃して始まりました。しかし翌1942年ミッドウェー海戦やソロモン諸島を巡る消耗戦では、熟練搭乗員と航空機を数多く失い、工業生産力に勝るアメリカに軍事力で逆転されます。1944年6月のマリアナ沖海戦では400機もの空母艦載機と空母3隻を失い、日本軍は機動力をなくします。

軍上層部は、太平洋で優位に立った連合軍には通常の攻撃では対抗できないと判断。特攻による体当たり攻撃をするしかないと考えるようになりました。そして1944年10月、第一航空艦隊司令長官に着任した大西瀧治郎中将が、神風特別攻撃隊と名付けた部隊を編成しました。

レイテでの特攻に向かう隊員と大西中将(ニュース映画「日本ニュース」より) レイテでの特攻に向かう隊員と大西中将(ニュース映画「日本ニュース」より)

10月下旬、マッカーサー率いる大上陸部隊がフィリピンのレイテ島に侵攻。同時に起きたレイテ沖海戦でフィリピンから出撃した神風特別攻撃隊は、護衛空母を撃沈するなど戦果を挙げました。その結果、軍上層部は、特攻をその後の攻撃の柱と位置付けるようになりました。

苛烈だった沖縄での特攻

1945年3月、沖縄に50万を越す連合軍部隊が押し寄せました。日本で唯一の地上戦となった「沖縄戦」の始まりです。

南九州を中心に奄美群島、石垣島、台湾の基地から沖縄本島周辺の連合軍艦艇に向けて、数多くの特攻隊が出撃しました。特に4月6日には、陸海軍合わせて300機もの戦闘機、爆撃機が体当たり攻撃を行ったのです。

沖縄本島に向かう米軍上陸用舟艇 沖縄本島に向かう米軍上陸用舟艇

沖縄戦で被害を受けた連合軍の艦船は200隻以上にのぼります。そのうち40隻以上の駆逐艦が撃沈されるか、終戦まで戦線復帰できないほどの被害を受けました。

軍艦は、通常の爆撃や雷撃なら戦闘機や対空射撃、操船によってある程度は防御できました。しかし搭乗員が最後まで操縦し続ける特攻は、容易に避けられませんでした。1隻の駆逐艦に、同時に5機の特攻機が体当たりしたこともありました。

2回にわたって特攻を受けた英空母 フォーミダブル 1945年5月 2回にわたって特攻を受けた英空母 フォーミダブル 1945年5月

出撃した若き特攻隊員の思い

出撃した特攻隊員の多くが20歳前後の若者でした。陸軍少年飛行兵学校や予科練習生を経た少年、学徒出陣で動員された大学生もいました。戦争の時代と言える昭和初期に育ち、"お国のために"戦争におもむくのは当然、戦場で命を散らすのは名誉なことだという価値観の中で生きてきました。

特攻隊員になることは志願制とされましたが、そこには命令や指名もあり、拒否することはできませんでした。そのなかで、万に一つも生き残る可能性のない特攻を前に、苦悩したり疑問を感じたりした若者も少なくありません。

慶應義塾大学から学徒出陣した上原良司さんは、当時の日本という国家に対する疑問を呈しながら出撃しました。

「自由の勝利は明白なことだと思います」
「権力主義、全体主義の国家は一時的には隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」
「一器械である吾人何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」

上原良司さん。1945年5月11日戦死 上原良司さん。1945年5月11日戦死

戦場になった南九州 空襲で小学生も犠牲に

多くの特攻基地があった南九州は、繰り返し空襲を受けます。特攻機が出撃する飛行場などの施設や工場が標的になり、大勢の市民が犠牲になりました。

鹿児島県は奄美群島から種子島、本土の各地に数十回に及ぶ空襲があり、3300人を超す犠牲者が出ています。宮崎市では、5月11日にB29の爆撃を受けて集団下校の小学生16人が犠牲になりました。熊本県は、7月1日にサイパンから来たB29による大規模な空襲で焼け野原になった後にも、米軍が占領した沖縄の基地から飛来した戦闘機と爆撃機の空襲を何度も受けました。連合軍は、11月に予定していた鹿児島・宮崎への上陸作戦の前に、徹底的に南九州の軍事施設とインフラを破壊しようとしたのです。

B29の爆撃で亡くなった山下陽さん(当時宮崎師範付属国民学校4年生) B29の爆撃で亡くなった山下陽さん(当時宮崎師範付属国民学校4年生)

沖縄戦での特攻犠牲者は日本軍3000人、連合軍5000人

沖縄戦の特攻での日本軍の死者は3000人余り。一方、攻撃を受けた連合軍側は5000人にのぼりました。いずれも20歳前後の若者です。

4月6日、米掃海駆逐艦エモンズは、特攻機5機に体当たりされました。エモンズに乗っていたアンソニー・エスポジトさんは2021年、NHKの取材に対してこう語っています。

「私は直撃を免れましたが、海面に死体がいくつも浮かびあたり一体は火の海と化しました。特攻機のエンジンとパイロットの死体を見ました。人生がこれからだという若者がカミカゼのパイロットになるなんて。恐ろしさに、私は海軍を去りました」

海軍時代のアンソニー・エスポジトさん(写真:ご家族からの提供) 海軍時代のアンソニー・エスポジトさん(写真:ご家族からの提供)

命を奪われたアメリカ人女性たち

4月28日の20時45分、沖縄本島沖で負傷した将兵の治療にあたっていた米軍の病院船コンフォートに、特攻機が突入しました。手術室を直撃し18人が即死、その中に6人の女性看護師がいました。

特攻で犠牲になったフランシス・チェスリー看護隊中尉 特攻で犠牲になったフランシス・チェスリー看護隊中尉

米陸軍看護隊(the US Army Nurse Corps)の看護師だったドリス・ハワードさん(当時25歳)は、外科治療室にいました。爆発で飛ばされたドリスさんは、背中と頭を強く打ち聴力を一時失いました。船内は機関が停止し大混乱に陥り、スピーカーからは船を捨てろという叫び声が流れました。

「ペニシリンの注射を打とうとした時に、経験したことのない激しい衝撃に襲われました。私も負傷していましたが、患者がいたので見捨てるわけにはいきませんでした。負傷兵と一緒に沈むつもりでいました」(ドリスさんの手記より)

特攻機の残骸を見つめる米陸軍看護隊の人々 右から二人目がドリスさん 特攻機の残骸を見つめる米陸軍看護隊の人々 右から二人目がドリスさん

その後、火災が収まったコンフォートはグアムに向かいました。死者・行方不明者31人、負傷者は48人に上りました。ドリスさんは背骨と内耳に後遺症を負いましたが、100歳を超えても戦争の体験を語り継いでいます。

"War is hell. I've seen the worst of it. War is never the answer."
戦争は地獄です。私はその最悪なものを見てきました。戦争は決して解決策にならないのです。

沖縄戦と特攻、その後

1945年6月23日、沖縄戦の組織的戦闘が終わりました。その後、広島、長崎への原爆投下、ソ連参戦もあり、日本はポツダム宣言を受諾。太平洋戦争、そして第二次世界大戦は終結しました。

連合軍は日本が降伏しないことを想定して、宮崎・鹿児島両県への上陸作戦、続いて関東への上陸作戦を計画していました。特攻と玉砕という自らの命をあえて投げ出す日本軍の戦い方に対抗するため、原爆や化学兵器の使用も視野に入れていたのです。

もし日本が降伏しないまま、本土上陸作戦が行われれば、まさに一億玉砕の事態になったかもしれません。

熊本から沖縄の米軍飛行場に出撃した義烈空挺(くうてい)隊。全員が戦死した(「日本ニュース」より) 熊本から沖縄の米軍飛行場に出撃した義烈空挺(くうてい)隊。全員が戦死した(「日本ニュース」より)

特攻は、命を落とした若者たちだけでなく、家族や友人、特攻機の製造のために動員された人々など、多くの人の心を深く傷つけ、今もその非情な出来事は語り継がれています。なぜ戦争をするのか、その中でなぜ命がこうも軽く扱われるのか、こうした事態が起きる世界の、社会の仕組みはどういうことなのか。そうした問いには、今も解が与えられていません。

制作:Yahoo!ニュース

未来に残す 戦争の記憶 トップへ