島根、鳥取の山陰両県も太平洋戦争末期、列車や基地が狙われ、空襲で市民が犠牲となりました。戦後76年、体験者が年々少なくなる中で、山陰でも空襲被害があったことを知らない人も増えています。悲しい記憶を残し伝えていくため、証言者の言葉と戦争の痕跡をたどり、当時を振り返ります。
山陰中央新報とYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。
太平洋戦争の末期、戦局が厳しさを増すにつれ、のどかな山陰にも暗い影を落とすようになった。出雲平野の散居村には、突如として飛行場が出現。地元の住民も建設に駆り出された。新聞に「本土決戦」の見出しが躍り、戦況の悪化が極まりつつあった1945年7月28日、山陰の空に米軍機が舞った。
当日朝、勤労動員の学生らを乗せた山陰本線の列車が鳥取県大山町を走っていた。上空に姿を見せた米軍の飛行機から隠れるように大山口駅付近で停車していたところ、空襲が始まった。
中学生だった近藤裕さん(91)は、勤労動員のため、友人と列車に乗っていた。30分にわたり続く攻撃の中、死体が折り重なる出入り口ではなく、窓から逃げ、車体の下へ身を潜めた。近藤さんは「辺りはとにかく死人とけが人。首がゴロンとしたり背中は皮がめくれたり。地獄絵図のようで、怖かった」と語る。米軍機は集中砲火を執拗に浴びせ、45人以上が死亡した。
当時9歳、米子市淀江町の国民学校4年生だった安江英彦さん(86)は、多数の死体を乗せた列車を目撃した。急ブレーキ音が聞こえ、様子を見に行くと、列車が自宅前に停車していた。客車の一両目に死体が折り重なり、線路にはどす黒い血がぽたぽたと落ちていた。「これが戦争というものか、と実感した」。
同日、出雲市斐川町の海軍大社基地も空襲を受けた。基地は終戦間際の45年3月、かつて川だった真っすぐで平らな土地を利用し、建設された。設営隊の主導の下、周辺住民も動員し突貫工事で建設され、3カ月足らずで完成した。
当時8歳、国民学校3年生だった青木幸正さん(85)は、勤労奉仕で建設作業に参加した。春休み、敷地の奥側を割り当てられ、ほかの児童とともに草取りをした。「沖縄を取り戻すため」の基地だと聞かされていた。その基地に向かって、米軍機が山をすれすれに飛んできて基地の西側へ入っていくのが見えた。すると4~5秒後、機銃掃射の音が聞こえてきた。青木さんは「被害の状況は、馬が1頭死んだくらいだ、死人は出ていないと聞かされていたが、後に3人ほど亡くなっていたと知った」と語る。
基地の東側に自宅がある水省一さん(96)。徴兵されて福岡県にいた45年3月、面会に来た父から「近くに飛行場が作られるらしい」と知らされた。終戦後の9月、自宅に戻ると家の周囲が飛行機を格納する掩体(えんたい)になり、5機の飛行機があった。飛行場に続く誘導路もできていた。「誘導路の拡張のために、あと10日戦争が続いていたら、自宅が半分ほどなくなっていただろう」。
空襲はさらに続いた。松江市玉湯町では、建設中だった水上偵察機の基地や列車が攻撃され、基地では25人の死者が、列車では十数人の死者と多数の重軽傷者が出た。
列車に乗車していた影山峰万さん(89)は中学2年生だった。姉と松江市内に向かうため乗っていた列車が、湯町駅(現玉造温泉駅)近くで停車した。上空に数台の飛行機が見え「1機が引き返し、急降下してきた。バリバリバリ!と、機銃掃射が始まった」。途中、外へ逃げようと立ち上がりかけた姉のすぐ横に銃弾が落ち、列車の床に穴が開いていた。
かつて山陰も「戦場」だった。他地域と比べて、空襲の規模は限られていたが、それだけに体験者の声は貴重で、記憶は消えやすい。平和な地域が、二度と戦火を受けることがないよう、証言や記憶を紡ぎ、後世に伝えていくことが今を生きる世代の使命だ。
制作:山陰中央新報・ヤフーニュース
取材:2021年7月
「父はBC級戦犯で絞首刑に」存在を隠して生きた息子 唯一のつながりは処刑前の「8通の遺書」 #戦争の記憶
毎日放送
「私の体の中に毒針がいる」79年経った今も続く被爆者の苦悩 #戦争の記憶
TSSテレビ新広島
目の前で死んだ兄「私の身代わりになった」父もめいも失い 海で死のうとした16歳の自責 #戦争の記憶
沖縄タイムス
「お父さん、もう逃げて」死を覚悟した16歳 体中にガラス片、両手足をやけど 何度も泣きながら娘に語った恐怖 #戦争の記憶
TSSテレビ新広島
魚雷被弾、4歳泣いて海へ 真っ暗な海上で母と最期の別れ 沖縄戦前夜の学童疎開 #戦争の記憶
沖縄タイムス
待ち受けていたのは"特攻"ではなく"原爆"だった 「生きたまま焼かれた」 元少年兵が語る地獄だった広島 #戦争の記憶
広島ホームテレビ