戦争を生き抜いた父や伯母... 夫失いどん底だった Awich、再起させた「沖縄の心」 #戦争の記憶

戦後78年。沖縄出身の人気ラッパーAwich(エーウィッチ)さんは、幼い頃から家族の戦争体験を聞いて育った。戦後、母が通っていた学校に米軍ジェット機が墜落し、真っ黒に焼け焦げた子の姿が今も脳裏に浮かぶ。その58年後、娘の通う小学校に米軍ヘリの部品が落下した。厳しい時代をたくましく生き抜いた故郷の先人たち。自身が夫を亡くしたときには、受け継がれてきた「沖縄の心」が前を向く力になった。身近な人の経験は「私にとって尊い財産」。この夏は伯母を訪ね、米軍に突撃して亡くなった兄のことや戦中戦後の暮らしに耳を傾けた。(取材・制作:琉球新報 大城周子、又吉康秀)

11歳の少女が見た空襲 ただ必死に逃げた

南国特有の強い日差しがまぶしい7月末。「日本のヒップホップクイーン」の異名を持つ沖縄出身のラッパーAwichさん(36)が、父の姉にあたる武富ゆき子さん(90)のもとを訪れた。「もう身内で戦争体験を語れる人は、ゆきおばさん1人だけ。今のうちに聞いとかなきゃっていう思いはすごくある」

戦後の急速な復興から「奇跡の1マイル」とも呼ばれる那覇の国際通り。ゆき子さんの自宅はその一角にある。直接会うのはコロナ禍を経て数年ぶり。祖先が見守る仏壇の前に座り、対話が始まった。

ゆき子さんは那覇の港町、通堂(とんどう)町で生まれ育ち、実家は旅宿を営んでいた。1944年10月10日。11歳のとき、米軍による初めての大規模な空襲「10・10空襲(じゅうじゅうくうしゅう)」が沖縄を襲った。

伯母の武富ゆき子さん(右)の話に耳を傾けるAwichさん=7月30日、那覇市内 伯母の武富ゆき子さん(右)の話に耳を傾けるAwichさん=7月30日、那覇市内

「それまでも学校の行き帰りには空襲警報の訓練があって、空襲があったら道に伏せをしてから逃げなさい...とかそういう訓練はさせられていた」。戦争が近づく足音は感じていたが、現実は想像を超えていた。

特に被害の大きかった那覇は市街地の90%が焼失。ゆき子さんの自宅や、通っていた小学校も全て焼けてなくなった。一家で本島北部にあった母親の実家を頼り、那覇から3日ほどかけて歩いて避難。母のサチさんは3歳になる弟をおぶっての過酷な道のりだった。

「空襲があったときはどんな気持ちだったか覚えていますか。怖い、死ぬかもしれないって思いましたか? 戦争が起こっている実感はありましたか?」。Awichさんの質問に、ゆき子さんは笑って首を振る。「小学生だったからね。ただ逃げるのに一生懸命で、どこに逃げればいいか考えるだけで大変だった」

兄の死は「悲しいどころじゃないさ」

10・10空襲を皮切りに、沖縄は地上戦を伴う苛烈な戦争へと突入していき、県民の4分の1が命を失った。その中には日本軍が兵力を補うために集めた14~19歳までの「学徒隊」もおり、ゆき子さんの兄・直義さんもその1人だった。記録や友人らの話によると、爆弾を抱えて米兵のもとへ飛び込んで亡くなったという。遺骨は戻らず、ゆき子さんによると「石のようなものを代わりに墓へ入れた」。

兄の死を知ったときの気持ちや母の様子、ゆき子さんにとってその記憶はおぼろげだ。「悲しかったか? 悲しいどころじゃないさ。でも実感はなかった」

Awichさんに戦時中の話をする伯母の武富ゆき子さん=7月30日、那覇市内 Awichさんに戦時中の話をする伯母の武富ゆき子さん=7月30日、那覇市内

対照的にゆき子さんが冗舌になる記憶もある。「那覇で旅館をしていたから、上等な着物は"疎開"させてあったわけ。だけど戦争が終わってからは食べるのも大変で、アメリカ人に売った」。
食料難のため有毒なソテツも食べていたといい、「かんなで薄く削って、あく抜きしてからおじやを作ったりするわけ。食べ方を知らずに亡くなった家庭もあったよ」。

前々から伯母の話を聞いておきたかったというAwichさん。「怖いとか、戦争が終わってうれしいとか、家族が死んで悲しいとか、そういった感情の部分を知りたかったけど、(伯母は)あまり覚えていないと言う。その時を生きた人じゃないと分からない命に対する価値観みたいなものがあると思う。生き抜いた人のしたたかさ、強さは感じました」
そしてこう続けた。「自分の中にもその強さはあると思いますね。沖縄で受け継がれてきた困難を生き抜く力というか。そういうものはあるんだろうなって」

伯母の武富ゆき子さんとAwichさん=7月30日、那覇市内 伯母の武富ゆき子さんとAwichさん=7月30日、那覇市内

夫を亡くし失意のどん底、父が言った「お前だけじゃない」

Awichさんは「沖縄戦や戦後の体験談に耳を傾けること」を昔から大切にしている。「沖縄戦のことも含めて自分のルーツだし、自分のアイデンティティーを形成するものとして知りたいから」だという。

104歳で亡くなった母方の祖父にも、日本軍の兵として戦った当時の話をよく聞かせてもらった。「お墓の中に隠れたとか、戦後は『戦果あぎやー』(米軍物資の横流し)をしていた話とかを聞いていました」

母方の祖父、福原兼吉さんと3歳ごろのAwichさん(Awichさん提供) 母方の祖父、福原兼吉さんと3歳ごろのAwichさん(Awichさん提供)

Awichさんの父の直行さん(81)もまた、沖縄戦の体験者だ。真珠湾攻撃の翌日に南洋諸島のパラオで生まれた。夜間の空襲に備えて「灯火管制」が行われているさなか、親しくしていた沖縄芝居の劇団一家が、舞台の幕で覆って遮光してくれる中での出生だったという。その一家には後に沖縄芝居を代表する役者となる北島角子さんもいた。

戦況が悪化しつつある沖縄に2歳頃戻った直行さん。戦後に必死に働きながら子どもを育てた母の話などを、Awichさんが幼い頃から伝えてきた。
「炎天下での畑仕事とか日雇いとか、過酷な仕事をしながら僕と姉さんを育てた。『日雇いまでして女を学校に行かすのか』と言われても歯を食いしばって学費を稼いでいた。今はぜいたくな暮らしなんだよ、というような話を娘にもしたと思う」

米国留学中に結婚し、長女を出産したAwichさん。2011年に夫は事件に巻き込まれ、銃弾を受けて帰らぬ人となった。失意のどん底からはい上がるきっかけを与えたのは直行さんの言葉だった。

「ウチナーンチュ(沖縄の人)は全員そうだからな。戦争で大事な人や家族を失ったんだ。お前1人だけじゃない」。厳しい時代を生き抜いた先人たちと同じ力が自分にもあるはずーー。音楽活動を再開する原動力になった。

米国で結婚した夫と娘との家族写真(Awichさん提供) 米国で結婚した夫と娘との家族写真(Awichさん提供)

小学校に米軍機が墜落、焼け焦げた子どもの姿

母の米子さん(73)は、戦後の沖縄で最大の米軍機墜落事故といわれる「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故」の生存者だ。この事故は1959年6月30日、石川市(現うるま市)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属の戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、住宅地に墜落。衝撃で跳ね上がった機体が近くの宮森小学校に突っ込み、死者18人、重軽傷者210人を出す大惨事となった。

当時、米子さんは宮森小の4年生。「ミルク給食の時間に突然、わあっと教室の窓から火が燃えているのが見えた。先生たちに呼ばれて中庭に集められると、パンツのゴムだけが焼け残って真っ黒になった子どもが『痛いよ痛いよ』と言いながら走り回っていた」。大人になってからも慰霊祭に参加するなどしてきたという。

娘のアーティストとしての姿勢について尋ねると、米子さんはこう語った。「沖縄戦を生き残った祖父や父がいて、こうして宮森の事故でも生き残った人がいる。だからこそ自分がいるというのは感じていると思う」

ジェット機墜落事故で負傷した宮森小学校の児童=1959年6月30日 ジェット機墜落事故で負傷した宮森小学校の児童=1959年6月30日

今度は娘が通う学校に...米軍機から窓が落下 沖縄への葛藤と希望

戦後27年間の米統治を経て日本に「復帰」した沖縄には、今もなお在日米軍の専用施設の約70%が集中する。戦争で傷ついた歴史、後を絶たない米軍基地由来の事件や事故、異国文化を取り入れてきた「チャンプルー文化」、多様なルーツを持つ人たちの共存...沖縄の人たちの感情にはひとくくりでは説明できない絡み合った複雑さがある。

2017年にはAwichさんの一人娘、鳴響美(とよみ)さん(15)が通っていた宜野湾市の普天間第二小学校に、米軍ヘリから重さ約8キロの金属製窓が落下した。

「沖縄の美しい青い空に飛び交う飛行機、ヘリ、ジェット機たちを私たちは子どもの頃から見上げています。宮森小学校に通っていたお母さんの時代から、普天間第二小学校に通っていた娘の時代まで、それは変わっていません」

沖縄の日本復帰50年に合わせて昨年リリースした「TSUBASA」。Awichさんはこの曲に、沖縄の子どもたちへの思いを込めた。 「『TSUBASA』で表現したかったのは、それでも強く生きる子どもたちの姿勢です。見上げるだけじゃなく、自分も翼を広げて、どこへでも行けるし何にでもなれる。そう思ってほしいとの願いを込めています」 

Awichさんと娘の鳴響美さん=7月30日、沖縄アリーナ Awichさんと娘の鳴響美さん=7月30日、沖縄アリーナ

薄れゆく記憶 「私の尊い財産、もっと聞いておかなければ」

昨年3月に日本武道館で初の単独ライブを成功させるなど、自らの可能性に挑み続け、スターダムへ駆け上がっているAwichさん。多忙になる中、家族の半生に耳を傾ける機会も少なくなっている。伯母のゆき子さんとの対談後には自省するような言葉もあった。

「家族や身近な人の体験や経験をもっと聞いておかなければいけないと痛感しました。それらは私にとってとても尊い財産で、私がそれをどのように昇華するかで娘や次世代の意識が変わっていくかもしれない。アーティストとしてもっと意欲的に注力していきたいです」

本名の「亜希子」は、母の米子さんが「アジア大陸のように大きな希望を持つ娘に育ってほしい」と名付けた。「Awich」はそれを直訳したAsian Wish Childを略した造語だ。いま、その名の通り世界へ羽ばたこうと突き進んでいる。

世界で活躍を誓うAwichさん=7月30日、沖縄アリーナ 世界で活躍を誓うAwichさん=7月30日、沖縄アリーナ

7月30日に沖縄アリーナで行われたイベントでは、愛娘の名前を刺しゅうした衣装で登場したAwichさん。MONGOL800の名曲をアレンジした「琉球愛歌 Remix」の前には、「忘れるな琉球の心」という歌詞を引用して、こう語りかけた。

「この沖縄で生まれて育って、そして今までいろんなところに行ってきた。いろんなところに行くたびに、沖縄で育てられた心が私を世界の人とつないでくれるって実感しています。この島で偉大な先輩たちが紡いできた歌、それを受け継いで、私の言葉を加えて、そして歌うことが成長につながっています。これから私は世界に挑戦するけど、そのときもこの琉球の心が世界に連れて行ってくれる。そう信じています」

取材・制作:琉球新報 大城周子、又吉康秀

インタビューの動画を見る(外部リンク)

戦争の記憶 記事一覧

未来に残す 戦争の記憶 トップへ