黒柳徹子さん「戦争反対」なんて言えなかったあの頃 いつもおなかが空いていた幼少期 #あちこちのすずさん

「どんなにいい考えを持ったり、希望を持ったり、才能があったりしたって、戦争があったら全部なくなっちゃう」

戦争で犠牲になる子どもたちへの思いを強く語る黒柳徹子さん。テレビ女優第1号となった1953年から、第一線で活躍を続けています。アジア初のユニセフ親善大使としては、世界中の貧困に苦しむ子どもたちを見てきました。(取材・文:NHK「#あちこちのすずさん2022」取材班/写真:NHK)



「戦争って泣いてもいけないんだ」

太平洋戦争が開戦した1941年、黒柳徹子さんは8歳。現在の東京・大田区に、両親と弟と暮らしていました。「戦争」は子どもだった黒柳さんの生活のあらゆるところに影を落としました。

――幼いながら、どういったところから戦争を感じたのでしょうか。

「まず食べ物がどんどんなくなっていくっていうことですね。ごはんでも何でも配給じゃないとものが売ってない。それから何を買うにもずっと並ぶんですよね。知らずに並んでいたらお葬式だったっていう話があるぐらいで。私もいつもおなかが空いていたし、お菓子なんて見たこともないし、食べ物がなくなったことで戦争を感じていきました」

――わがままを言いたい年頃なのに、戦争中はいろんな我慢を強いられたんですね。

「私ね、日曜学校に行くのにすごく寒くておなかも空いていたから、ちょっと泣きながら歩いていたんです。そうしたら、おまわりさんが来て『おい!こら!何で泣いてんだ』っていったから『寒いからです』っていったらね、『おまえ兵隊さんのこと考えたら寒いからって、泣いたりなんかできないだろ』ってすごく叱られたんですよ。そのときに『あ、戦争って泣いてもいけないんだ』って。それからどんなことがあっても泣かないようにしようって思って。

今考えるとかわいそうなんですけど、その時は本当にそう思いましたね。泣いちゃいけないんだなって。みんな子どもたちは子どもたちなりに一生懸命に考えて生きていたと思います」

終戦が近づくにつれて、東京の空襲は激しさを増します。そして1945年3月10日、東京大空襲の日を迎えました。B29が投下した大量の焼夷弾(しょういだん)により市街地は大火災となり、約10万5400人が亡くなりました。

黒柳さんは当時11歳。通っていた自由が丘の学校は焼け落ちました。その頃には食べるものもなく、栄養失調に陥っていました。痩せ細るだけではなく、体中に「おでき」ができ、細菌感染により爪は「ひょうそ」になっていました。

「手の爪の中が全部膿んじゃうの。そうするとものすごく痛いんですよね。なんだか夜寝ていると、何本もだから同時に全部が痛くなるの、ずきんって。もう病院ももちろんないですし、お薬もない。それを治す手立てはもう、自分で我慢するしかなかったんですよ」(NHKアーカイブス)



疎開先は4畳の「リンゴの見張り小屋」

東京大空襲のすぐあと、黒柳さんは母親と弟、生まれたばかりの妹とともに疎開しました。

――疎開先ではどのような生活を送っていましたか?

「青森県に疎開しました。リンゴの見張り小屋っていうのがあって、私たちはそこでずっと暮らしていました。4畳ぐらい。窓が1つ、あと戸があって、それだけなんですけど。母は疎開するときに、自宅からゴブラン織りのソファを切り抜いて風呂敷みたいにして持ってたんです。それを上手にカーテンのようにしたり、お花みたいなものがあると干してさげたりなんかして、あっという間に居心地のいい応接間のような感じにしました。

うちの母は今思ってもすごいなと思います。考えてみると、当時32、33歳なんですよ、まだね。それなのに子ども3人連れて。一番下の妹はまだ生まれたばかりの赤ん坊で、もうひとりもちっちゃかったんです。

ある日、リンゴ小屋でこんなこともありました。小屋の後ろに東北本線が走ってて、『どかーん』とすごい音がしたので『何ごとか』と思ったら、コークスといって石炭みたいな燃料を載せた汽車がぶつかって、山のようにコークスが落ちてきたのね。そしたら母が『ここはいろんなものが落ちてくるのがいいわね』なんていって、コークスを拾ってきて。ごはん炊く時やらに、とってもいい燃料になるので、私も拾ったりなんかして。そういった意味ではね、体験したことないことの連続でした」

1945年8月15日、終戦の日を青森で迎えました。父親は中国に出征したきり行方がわからず、東京の自宅は焼けて帰れないかもしれないと聞いていました。それでも、「不安の中で生きなくていい、戦争が終わって本当によかった」と思ったといいます。

終戦を喜んだ黒柳さんですが、これまである後悔を抱きながら生きてきたそうです。

当時、出征する兵士を「ばんざい」と言って大勢で送り出すのが慣例でした。黒柳さんもまた、日の丸の旗を振って兵士を送り出していました。そうすると、スルメの足が1本もらえたのです。黒柳さんはするめ欲しさに、何度も旗を振って兵士を送り出しました。

「あのとき、子どもが一生懸命旗を振ったんで、頑張ってくるぞって思って戦争に行った人がいて、もしその人が帰ってこなかったとしたら、なんて自分はね、罪深いことをしたってね。ものすごくそのことでは、やっぱり本当に戦争責任を自分でも感じています」



「戦争反対」なんて言ったら取り締まられた

今年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。黒柳さんはユニセフ親善大使として、いち早く募金を呼びかけました。

――今も、世界中には我慢を強いられながら戦時下を生きる子どもたちがたくさんいると思います。ウクライナの子どもたちについては今、どんな思いでいますか?

「ウクライナの子どもたちは避難などでいろんなところに連れて行かれているでしょう。すごい数の人間が移動したり逃げたりしなければならないであろうのを見ていると、泣いたりせずに、『こっちに行けって言われたらこっちに行って、あっちに行けって言われたらあっちに行って』と、とにかく大人の手足まといにならないように、大人の言うとおりにしようとしているんだと思います。

そう思うとすごくかわいそうでね、本当にひどいなってつくづく思います。だからやっぱり、とにかく戦争は絶対に嫌だって。どんなことがあっても戦争は嫌だって、自分で強く思います。みんなで力をあわせて思うことが大事だと思います。

私はたくさんドラマや芝居などに出ましたけど、ちょっとでも戦争に加担するようなものがあったら、『絶対そういうものにはでないようにしよう』って自分で決めてましたから。これだけ長く芸能界にいて、1回も出ませんでしたから。それは戦争に対する思いだって自分で思っています」

「どんなにいい考えを持ったり、希望を持ったり、才能があったりしたって、戦争があったらそんなものも全部なくなっちゃうんですものね。

若い人は、『戦争反対ってあの時言えばよかったじゃないですか』って言うけど、そんなことできなかったのよ。『戦争反対』なんて言おうものなら、厳しく取り締まりされていたから。今は戦争反対って言えるからいいですけどね。これがだんだん無くなってくるような時代が来たら絶対嫌だから、そうならないよう『平和がいい』って言えるようにいつもしていきたいと思います」

ーーー

この記事は、NHKが「あちこちのすずさん」(8月12日放送)の番組制作にあたり独自で取材した内容をもとに制作したものです。

【関連記事】

伊野尾慧(Hey! Say! JUMP)が聞く 戦争を生き抜いた視覚障害者「目が見えない僕がマッサージを続けた理由」(外部リンク)

映画監督 片渕須直さんが語る"戦争のリアル" 「ごくありふれた日常だからこそ壊してはならない」(外部リンク)

Twitterフォロワー15万人超 89歳、戦争を体験した大﨑博子さんが話す「なぜツイートし続けるのか」(外部リンク)

未来に残す 戦争の記憶 トップへ