「小さい人」をだますな 優しいのっぽさんの静かな怒り 感じた現代の"きな臭さ" #戦争の記憶

5月、ある訃報がもたらされた。NHKの子ども向け工作番組「できるかな」などで人気を博した高見のっぽさんだ。のっぽさんは子どもを「小さい人」「おチビさん」と呼び、「小さい人はとても賢い」と言っていた。のっぽさんへのインタビューを振り返ると、その理由の一つに、自身の戦争体験が横たわっていたのが見えてきた。【江畑佳明】

生前最後の取材で語ったこと

のっぽさんは昨年9月10日、心不全により88歳で亡くなったが、公表は今年5月10日。本人の「半年は伏せてほしい」いう遺志があった。私たちは昨年7月21日、のっぽさんにインタビュー取材をしていた。亡くなる約50日前のことだ。後で聞いたところでは、これが最後の取材になったという(紙面掲載は2022年8月22日夕刊)。

取材の目的は「戦争の記憶」を聞きたかったから。終戦時に11歳だったが、その体験を語り出したのはつい最近のこと。2015年に出版された「私の『戦後70年談話』」(岩波書店編集部)への寄稿からだった。

俳優で作家の高見のっぽさん 俳優で作家の高見のっぽさん

「ハーイ、死にますぅ」

「一番大事なのは、小さい人が『大人にだまされていた』と気づいたことですよ」。取材が始まって、まずこう口にした。

「私の『戦後70年談話』」のなかで、こんな話が載っている。東京・向島に住んでいた頃、父と一緒になじみの喫茶店に行く。すると店主のおじいさんが父に「もう、ロールケーキは出せないんだよ」と言う。高見少年は「変なのぉ」と胸の中でつぶやく。そして次の日、町中の菓子処からアンコが消えた。そしてこうつづっている。

<消えたと思ったら戦争が始まったのである>

その後、「欲しがりません勝つまでは」というポスターが町中にあふれた。

<この殊勝なおチビさんは『ハーイ、わかりましたア!』とやったのである>

戦況の悪化とともに、過激な標語が増えていく。「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「尽忠報国」「死して護国の盾となれ」......。おチビさんだったのっぽさんは、こう反応したという。

<ハーイ、わかりましたア!死にますぅ>

「今ぞ一億、敵は米英だ」の標語を見る人たち=1942 年 1 月撮影 「今ぞ一億、敵は米英だ」の標語を見る人たち=1942 年 1 月撮影

「ムカムカした」

小学4年のとき、家族で岐阜県に疎開する。1945年7月には約900人が亡くなった岐阜空襲に遭遇する。自宅から約4キロ先の岐阜市上空が真っ赤に燃え、空襲警報が鳴った。庭の池を干して作った防空壕(ごう)代わりの岩間に身を潜めた。

そのときの状況を我々のインタビューでこう語っている。

「B29から『ヒュー』と焼夷(しょうい)弾が落ちてきて、近くにあった二つの工場が丸焼けになったんです。父はその一つの工場長でした。翌朝、無事に帰ってきて『たった一度で見事なもんだ』と話すんです。それで僕は(もうアメリカには勝てないと思って)『あーあ』って落胆したの」

ほどなく終戦。これを境に、軍国主義教育だった学校の雰囲気が一変したのを感じたという。「先生が『民主主義っていいもんだな』なんて言うんです。つい最近までは『死して護国の盾になれ』と教えていたのに、よく恥ずかしげもなく口にできるなって思うと、もうムカムカしてね」

のっぽ少年はその日から、教頭や校長を「奴(やつ)」と呼び反発した。

東京・日本橋の隣組運動会。米国の大統領の似顔絵を的にバケツリレー=東京都中央区で 1943 年 4 月 東京・日本橋の隣組運動会。米国の大統領の似顔絵を的にバケツリレー=東京都中央区で 1943 年 4 月

「5歳が絶頂」その真意

静かな怒り――。あの優しい、のっぽさんが、怒っている。
のっぽさんは、かつてこう言っていた。「小さい人はとても賢い」と。<『世間知』みたいなものに関して、物事の本質を判断したり見抜く力はもう5、6歳で十分備わっているんです。(略)そういう意味で私は、5歳が絶頂でした(笑い)>(毎日新聞2010年9月9日夕刊)

賢い「小さい人」が大人にだまされる。それが戦争。労働力として協力させられ、命まで奪われる。そんな理不尽さばかりだ。現に今も、ロシアに侵攻されたウクライナでは子どもたちの悲劇が続いている。命を失うばかりか、多数が拉致されたとの報道もある。もしのっぽさんが存命だったら、どんな思いだっただろうか。

手紙で「特攻隊志願」を知らせた兄

兄についての思い出も、かつてのインタビューで語ってくれた。22年8月16日の毎日新聞の記事には、こうある。

<兵役に就いていた12歳上の兄から届いた手紙が忘れられないという。近況を知らせる内容だったが、文面に打たれた傍点をつないでいくと『とっこうたいにしがん』(特攻隊に志願)と読めた。空を仰ぎ、『兄ちゃんも国のために死ぬんだな。しょうがないな』と思った。兄は結局、ソ連の捕虜になりシベリア抑留。戦後に帰還したが、両親から後に『抑留中、わざと重い石を落として足を折って重労働を避けていた』と聞いた。『やっぱりつらかったんでしょう。90歳過ぎに他界したんですが、最後まで当時のことは言わなかったですね』>

インタビューに答える高見のっぽさん インタビューに答える高見のっぽさん

「国のために犠牲、冗談じゃない」

のっぽさんが戦争への思いを語るようになったのは、戦後70年前後のことだった。「政治家が『愛国心』や『道徳教育』を口にするようになった。愛する国のためにどうすればいいのかを勉強するなら分かる。でも愛する国のために犠牲になることを教えるなんて、冗談じゃない」

「私の『戦後70年談話』」では、お兄さんへお見舞いに行った際、言おうとしてやめた言葉があったとしている。
<この頃さあ、あの時と同じ様なキナ臭いこと言い出す変なのが多いんだぜ>

「もっと飛行機を送ろう」の貼り紙の下で実施される防空訓練=東京都中央区八丁堀で 1944 年 3 月 「もっと飛行機を送ろう」の貼り紙の下で実施される防空訓練=東京都中央区八丁堀で 1944 年 3 月

「小さい人のために本音を」

2016年7月に実施された参院選の直前にも、「小さい人」への思いを語っていた。参院選の街頭演説などで、安倍晋三首相(当時)が自身の宿願である「憲法改正」にほとんど触れておらず、「争点隠し」のような姿勢を批判する記事だった(毎日新聞7月1日夕刊)。

<(首相が)本音を語らないのは、有権者を軽く見ている証拠だと思います。『経済政策を前面に出せば有権者は飛びつくから、ごまかし通せるはず』と考えているのでは。演説で『子どもたちの未来のため』と言うなら、今きちんと本音を語り、議論すべきです。私と同じような経験をこれから何十年も生きる『小さい人』に味わわせたくない>

「風のように逝くからさ」

作家で俳優の高見のっぽさん 作家で俳優の高見のっぽさん

のっぽさんは歌手であり、ダンサーであり、役者でもあり、絵本作家でもある。つまりはエンターテイナー。平和活動家ではない。だが、「小さい人」に敬意を持って接する根底には、戦中戦後の自身の記憶が横たわっていたような気がしてならない。

最後になるが、40年近くのっぽさんと親交がある事務所代表の古家貴代美さんによると、亡くなった日は澄み渡るような「中秋の名月」の夜空が広がっていた。のっぽさんは「僕は、風のように逝くからさ」と生前よく口にしていて、実際にそんな爽やかな日だったという。死の公表は半年以上伏せられたが、「人は誰しも死ぬ。周囲のみんなを騒がせたくない」という思いがあったという。それも、のっぽさんなりの「優しさ」だったのかもしれない。

制作:毎日新聞

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