「おしめを洗った水も飲んだ」穏やかな島を襲った空襲 弱って死んだ父、生き延びた少女の願い #戦争の記憶

「ここらに爆弾が落ちてから、火がのぼって全部焼けたもんや」。辺りを指さして話す3人の女性は、戦争当時、鹿児島県の喜界島にいた10歳代の少女たち。さとうきび畑が広がり、エメラルドブルーの海が囲む穏やかな島は78年前、特攻機の中継地となり、米軍の標的となった。戦時の島を生き抜いた彼女らの記憶をたどり、戦争の爪痕を訪ねた。(制作:鹿児島読売テレビ・読売新聞鹿児島支局)

姉妹が見た戦争「けがしたところから虫がわいた」

米軍が沖縄に上陸した1945年、生田カメさん(92)と広(ひろし)育子さん(88)の姉妹は喜界島の国民学校に通う14歳と10歳の少女だった。島は九州の南端と沖縄南部から約300キロ、本土と沖縄のほぼ中間地点にある。戦時、本土から飛び立つ特攻隊が沖縄へ向かう中継地として、クローズアップされた。現在の喜界空港に喜界島飛行場が整備され、陸海軍の部隊が駐屯するようになると、島は米軍の標的となった。

喜界島が最初に空襲を受けたのは45年1月22日。午前8時40分頃、18機の米軍機が海岸の上空に現れ、24人が死傷した。以降も繰り返され、8月までの106日間に延べ約720機の米軍機が飛来した。

生田さんと広さんは、島の南西に位置する上嘉鉄(かみかてつ)集落で暮らしていた。空襲で自宅は焼け崩れ、生活は一変した。広さんは「住むところがなくて、丘(山)にある小さな小屋で暮らした。戦争だから仕方なかった」と振り返った。

防空壕に逃げ込み、身を守る様子を語る生田さん 防空壕に逃げ込み、身を守る様子を語る生田さん

喜界町誌によると、島は当時、3931戸の民家があったが、空襲で半分近くの1910戸が焼失、倒壊した。119人が死んで30人が負傷した。飛行場そばの中里集落は最も被害が甚大で、全ての民家が被災したという。生田さんは「警報が鳴ったら丘へ走り、防空壕(ごう)の穴の中に入るの。そこで音と光をふさぎながら、泥の中でも、どこでも伏せていた」。そう話すと、親指で耳の穴を塞ぎ、残りの指で目を覆ってみせた。「3、4機の編隊で飛んでくる。最初は海の方に爆弾が落ちて大丈夫だったけど、集落に落ちた時は全部がみるみるうちに焼けたよ。大東亜戦争はひどいよ」

妹の広さんは、上嘉鉄集落が初めて空襲を受けた日の光景が目に焼き付いている。「北や南から米軍の飛行機が飛んできて、海に向かってバラバラと機銃の弾をまくのが見えた。海には日本の見張り船がいて、しばらくすると、船の乗組員が担架で学校に運ばれた。血だらけの乗組員が前を通っていったのを昨日のように覚えている」

学校で血だらけの乗組員を見たと話す広さん 学校で血だらけの乗組員を見たと話す広さん

生田さんも空襲で負傷した女性を見たという。「その人は爆弾が足に当たった。けがしたところからウミが出て虫がわいた。丘の中で、虫をピンセットで抜いていたよ」と教えてくれた。

自宅が燃えた後、一家の暮らしは困窮した。生田さんは「焼けて何もない。着の身着のままだから親戚に物をもらって自給自足の生活よ。包丁やまな板、戸板をもらって丘の中で過ごした。布団もないからゴザを敷いて寝起きした」と語る。洗濯も十分にできず、着物はノミやシラミだらけになった。「服が虫で白くなった」「着物の縫い目の中にたまったシラミをお湯で消毒しよった」。姉妹は服の縫い目を指でなぞって説明した。

広さんが当時の恐怖を忘れることはない。「機銃が自分に向けて撃たれ、死ぬかもと思った。戦争は絶対にいや」と訴える。生田さんは「平和が一番よ」と戦争のない世界を心から願う。

「弾が手をかすった」「父は防空壕の中で亡くなった」

ひとりっ子の西野イシ子さん(91)も上嘉鉄集落で暮らしていた13歳のとき、死と隣り合わせの体験をした。「飛行機が来たら、丘の中に走りよった。防空壕から飛行機が飛んでくるのが見えるの。ある日、避難してたら防空壕の前で機銃の弾が手をかすった。熱を感じた。弾は目の前のバケツに当たって壊れた。亡くなった人もいるなかで、命拾いをしたよ」。西野さんは弾がかすったという左手の甲をさすった。空襲のさなか、大切な家族を失った。「父は避難した防空壕で過ごすうちに体が弱り、苦しみながら亡くなった」。西野さんの表情に険しさが増した。

弾が手の甲をかすったと話す西野さん 弾が手の甲をかすったと話す西野さん

戦時中は自炊も一苦労だったという。「塩がなかったから、海水を一升瓶にくんで料理した。まきもないから、馬や牛のフンを石の上で温め、ふーっと吹いて火をおこした。マッチ代わり。臭いけれど、当時は大変貴重だったの」

食料も足りず、限られたもので空腹をしのいだ。「里芋によく似た、山の中にある芋を食べたけど、口の中がかゆくなった。のどまでかゆくなった。食べたくないけど、食べるしかない。おしめを洗って汚れた水も飲んだ。今では想像もつかないよね」とほほえんだ。

西野さんは現在、関東や関西などにいる孫たちに手紙を送り、戦争の記憶を伝えているという。「体験をつづって、子どもたちに残したい気持ちはある。どんなことがあっても戦争をしてはいけない。大変な思いを味わったから」

島に残る戦争の爪痕

喜界町中里に住む野間昭夫さん(77)は終戦の翌年、母親が疎開していた鹿児島県本土で生まれた。その翌年の47年に家族と喜界島に戻った。戦争は体験していないが、長兄の武一さん(故人)が記した手記で戦時下の家族の状況を知った。「戦争について、母や兄の残したものが私の記憶にある。誰かの役に立つことをしたい」。当時を生きた人たちの証言を聞くなどして、島の戦争遺構について学び、町役場を退職後の2009年から中里地区のガイドとして戦跡を紹介している。

喜界島の戦跡を説明する野間さん 喜界島の戦跡を説明する野間さん

野間さんの案内で島を巡った。喜界空港を出ると、すぐに立体的な形が特徴の戦闘指揮所跡があった。サンゴや砂が混じった当時のコンクリートそのままで、半地下式の構造だ。特攻兵らが出撃の作戦指示を受けた場所だったという。

戦闘指揮所跡 戦闘指揮所跡

「44~45年に建てられた当時は、机と椅子が並べられ、特攻隊員らが敵の場所を確認したり、作戦について相談したりしたと思われます」。爆撃により、入り口の鉄骨は向きだしになっていた。

使われなかった特攻兵器「震洋」

海軍は米軍の喜界島上陸に備え、特攻兵器「震洋(しんよう)」を準備していた。震洋は爆薬を搭載して、敵の艦船に体当たりで攻撃する特攻艇。島内には50艇が配備されたが、いずれも出撃することなく終戦を迎えた。野間さんによると、島には震洋を格納する場所が5か所あり、島の東方に位置する早町には第40震洋隊の格納壕(ごう)跡が残っているという。「海軍の指揮の下、奄美大島から来た中学生らが穴を掘っていました。今は崩れる危険があるため、石を詰めて塞いでいます」

第40震洋隊格納壕跡 第40震洋隊格納壕跡

兵器の一部は、戦争が終わった後、島の暮らしの中で使われた。佐手久地区公民館の近くには、日本軍の爆弾を再利用した釣り鐘がある。「爆弾釣鐘」と呼ばれ、戦後、多くの集落で使われた。火事が起きたり、会合を開いたりする際の連絡手段になったという。島で唯一残る佐手久の釣り鐘は、小野津集落で回収された爆弾だった。

喜界島に唯一残る爆弾釣鐘 喜界島に唯一残る爆弾釣鐘

島の東側の高台には海軍の電波探知基地跡も残る。野間さんは「喜界島はサンゴが有名で、美しい海を目当てに来る観光客が多い。ただ、戦争があったという島の歴史にも目を向けほしい」と訴える。

制作:鹿児島読売テレビ・読売新聞鹿児島支局

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