「ゴゴゴーと地響き」空襲の恐怖と空腹 当時9歳、特攻で亡くした兄思う妹 #戦争の記憶

日本本土の南端をなす鹿児島県の大隅半島。その中央にある鹿屋市には太平洋戦争時、三つの海軍航空隊の基地があり、1000人以上の特攻隊員が出撃した。中でも鹿屋基地は「人間爆弾」とよばれる特攻兵器「桜花」が配備され、多くの若者が命を落とした。「家に帰るのは今日が最後です」。鹿屋市出身の徳永幸雄さん(当時21歳)は出撃の前日、基地近くの実家で家族と過ごし、別れを告げた。(制作:鹿児島読売テレビ 読売新聞鹿児島支局)

160人の若者が1日で命を落とした

攻撃目標は九州の南東海上にいる敵の空母機動部隊だった。1945年3月21日午前11時20分、幸雄さんが所属する「神風桜花特別攻撃隊神雷部隊」(桜花特攻隊)が一斉に飛び立った。

全長約6メートルの桜花は、機首部に1トンを超える大型爆弾を搭載し、敵艦に体当たりする特攻兵器だ。母機の一式陸上攻撃機(一式陸攻)につり下げられて移動し、敵機に接近したところで切り離される。幸雄さんが搭乗したのは零戦。2.3トンの桜花をつり下げた一式陸攻は飛行速度が遅く、零戦には桜花が敵艦に近づくまで守り抜く任務が課せられた。

この日は桜花特攻隊として初めての出撃。桜花15機、一式陸攻18機、零戦30機の編成で、18~34歳の若者計180人が搭乗した。戦果を期待されて飛び立ったが、離陸して約2時間半後、南大東島の付近で米軍のレーダーに探知された。鹿屋から約600キロ離れた洋上。米グラマン戦闘機など50機の標的となり、桜花と母機の全機と、零戦の10機が撃墜された。搭乗員計160人が1日で戦死し、幸雄さんも命を落とした。

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館の2階には、1000人以上の特攻隊員の遺影が並ぶ。その中に、落ち着いた表情で正面を真っすぐ見つめる幸雄さんの姿があった 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館の2階には、1000人以上の特攻隊員の遺影が並ぶ。その中に、落ち着いた表情で正面を真っすぐ見つめる幸雄さんの姿があった

飛行機に憧れた兄

5男2女の長男として生まれた幸雄さんは、親代わりにきょうだいの面倒を見るしっかり者だった。幼い頃から海軍に憧れ、反対する父親に隠れて、入隊するための勉強をしていたという。「兄は独学で試験に合格したと聞いています。それほど、飛行機乗りに憧れていたんでしょうね。勉強家で努力家だったそうです」。7人きょうだいの末っ子のツヤ子さん(87)は亡き兄に思いをはせた。

志願して海兵団に入団し、その後、飛行予科練習生の試験に合格。戦闘機の操縦員となり、特攻要員として桜花特攻隊に配属された。幸雄さんの弟で三男の茂さん(94)は「飛行機が大好きで、真面目で、きょうだいから慕われた兄貴だった。昼に学校に通い、夜は精米所で働いて、帰ってくるのはいつも遅かった。それでも、親の代わりにきょうだいの面倒を見てくれた」と記憶をたどる。

幸雄さんについて語るツヤ子さん(左)と茂さん 幸雄さんについて語るツヤ子さん(左)と茂さん

「自分が乗った飛行機が、家の周囲を3回まわるから」

出撃準備命令が下された3月20日の夕方、幸雄さんは鹿屋市の実家に帰宅した。家族と食事をともにし、最後になるかもしれない時間を過ごした。翌日の早朝、幸雄さんは、まだ寝ていた当時9歳のツヤ子さんを抱きしめた。母親のニワさんに「家に帰るのは今日が最後です。自分が乗った飛行機が、家の周囲を3回まわるので、それが自分だと思って欲しい」と約束して自宅を後にした。

昼前、ニワさんは竹ざおにタオルを巻き付け、家の上空を旋回する零戦が見えなくなるまで、さおを振り続けたという。

最愛の家族の死を知ったのは新聞の「特攻隊・戦死」という記事だった。自宅では購読していなかったが、近所のおばさんが「載っているよ」と見せに来てくれた。

史料館に残る幸雄さんの記録 史料館に残る幸雄さんの記録

連絡を受けた家族は後日、小さな木箱を持ち帰った。「カラカラ」と音がする箱を姉が開けると、遺骨の代わりに、小さな貝殻が10個ほど入っていた。きょうだいが泣き崩れる姿を、ツヤ子さんはただ、見つめていたという。

ツヤ子さんの記憶の中に、幸雄さんの姿はほとんど残っていない。大きくなって家族から教えてもらったことが、幸雄さんについて知る全てと言っていい。「私を抱いてくれたのは、特攻で亡くなる日の朝。寝ぼけていた私は全然覚えていない。だから分からないの。一目会いたいですがよ......」。ツヤ子さんは寂しげに語った。

「ゴゴゴーと地響きが鳴り、生きた心地がしなかった」

12歳離れた幸雄さんの思い出は人づてばかりだが、幼心にも戦争のつらい体験や恐ろしさは刻み込まれている。

終戦の年、ツヤ子さんは小学3年生だった。鹿屋でも次第に空襲が増え、いつ来るとも知れない敵機にツヤ子さんは緊張を強いられた。「机の下にもぐる練習をする時は、姉さんが作ってくれた防空頭巾をかぶっていました。近くの小学校では、児童が学校にいた時、空襲があり、校庭に大きな穴が開いたそうです」。

ツヤ子さんが空爆に襲われたのは、まきを取りに山に入ったとき。サイレンが鳴り、見上げると敵機がバラバラと弾を落としていた。「ゴゴゴーとすごい地響きが鳴り、生きた心地がしなかった」。一緒にいたきょうだいはツヤ子さんに柴をかぶせ、その上から覆いかぶさるように伏せて守ってくれたという。「空襲はすごく怖かった。それだけは忘れられない。もう、あんな時代は二度と体験したくない」。ツヤ子さんの表情は険しさを増し、語気を強めた。

幸雄さんが憧れた零戦 幸雄さんが憧れた零戦

空腹に耐え続けたのも苦い記憶として残る。「当時は給食もないし、お米も食べられなかった。代わりにサツマイモと麦を混ぜた団子を食べていた。味付けも塩くらいで、ずっとひもじかった」と振り返る。

当時、学校に通っていたきょうだい5人分の弁当が必要だったが、全員分を用意できない日もあった。そんなときは年長のきょうだいは昼食時に食べず、外で遊んで過ごしたという。「だから家に帰ってきたときは、おなかはぺこぺこ。勉強どころじゃない。恐ろしいのと、おなかがすくので精いっぱいでしたよ」と語る。

空腹に耐える暮らしは戦争が終わっても続いた。「小学5、6年くらいのときに給食が始まったけど、茶わん一杯分のお汁が週に2回だけ。それでも、すり身の団子が入っていた日はうれしかった。おいしかったよ」

不足していたのは食べ物だけではない。日用品も買えない暮らしが当たり前だった。「雨が降っても、傘がない人は着物をかぶったり、『あんぴら』と呼ばれるサツマイモを入れる袋をかぶったりしていた。びっしょりとぬれて帰ることもよくあった」という。

「戦争の『せ』の字も口にしたくない」

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館には、1936年に海軍鹿屋航空隊が開設されてから、現在の海上自衛隊鹿屋航空基地に至るまでの資料を保管、展示している。同館によると、桜花特攻隊は45年3月から6月中旬までに第10次の出撃があり、16~34歳の430人が命を落とした。ツヤ子さんは、自宅に飾られた笑顔の幸雄さんの遺影を見つめ、早すぎる死を悼む。

「母が竹ざおを振って見送った日に亡くなったんですよ。親はたまらんですよね。本当にかわいそう。今、テレビを付ければ戦争ばっかりでしょ。見たくもなければ、聞きたくもない」

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館には、海中から引き揚げられた機体を使って復元された零戦が置かれ、幸雄さんが搭乗したコックピットの操縦かんや計器類の細部を見ることができる 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館には、海中から引き揚げられた機体を使って復元された零戦が置かれ、幸雄さんが搭乗したコックピットの操縦かんや計器類の細部を見ることができる

自身の戦争体験を子や孫らに話そうとは思わない。「現代の子からしたら、今の生活とかけ離れすぎていて、想像もつかないでしょう。そんな戦争の話をしても分からないと思う。それに戦争の『せ』の字も口にしたくない。思いだすから」。そう胸の内を教えてくれた。

ただ、兄の存在を後世に残したいという気持ちもある。「兄のことを覚えている人は年々少なくなっている。世の中が兄のことを忘れないためにも、取材を引き受けました」とツヤ子さんは話した。

茂さんの自宅近くで静かにたたずむ幸雄さんの墓は上屋で囲われ、きれいな状態で保たれている。ツヤ子さんは命日には欠かさず墓参りをしているという。

幸雄さんの墓前で手を合わせるツヤ子さん 幸雄さんの墓前で手を合わせるツヤ子さん

うだるような暑さの7月中旬、墓前でツヤ子さんは手を合わせた。「楽しい時期を戦争に取られた兄は、かわいそうな人生でした。孫やひ孫を、あんな目に遭わせたくない。戦争なんて嫌なこと」。終戦の日が近づくにつれ、幸雄さんを慕う気持ちを募らせ、戦争を繰り返さない決意を新たにしている。

制作:鹿児島読売テレビ 読売新聞鹿児島支局

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