77年前、多くの特攻隊が飛び立った鹿児島の地で、特攻作戦に異議を唱え独自の戦いを貫いた部隊がいました。なぜ特攻作戦に疑問を呈したのか。その歴史にひかれ、思いを伝える人たちがいます。
鹿児島県曽於市大隅町。太平洋戦争末期の1945年頃、そこには軍の秘密基地とされた海軍の岩川航空基地がありました。跡地には「芙蓉之塔」と書かれた慰霊碑が建てられています。ここ一帯は、通称「芙蓉部隊」と呼ばれる特別な部隊の基地でした。
芙蓉部隊の歴史を語り継ぐ岩川芙蓉会のメンバーの一人が、鹿児島市在住の前田孝子さん(77)です。前田さんは1978年に芙蓉之塔が建立されたニュースを見て、芙蓉部隊の存在を知りました。地元の人でもあまり知られていなかった芙蓉部隊とは、一体どんな部隊だったのでしょうか。
当時、富士山をのぞむ静岡の藤枝基地に夜間の攻撃を専門とする夜襲部隊がいました。これが当時29歳の美濃部正少佐が率いた芙蓉部隊です。難易度の高い夜間飛行の技術を習得するため、隊員たちは必死で厳しい訓練に励み、戦果を挙げていました。
そんな中、連合艦隊の作戦会議で「沖縄戦では全機を挙げ全て特攻編成とする」という方針が示されました。会議に最年少で参加していた美濃部少佐はただ一人、この作戦に異議を唱えたとされます。美濃部少佐が戦後に上梓した遺稿「大正っ子の太平洋戦記」には、こんな一節があります。
美濃部少佐「今の若い搭乗員の中に死を恐れる者は居りません。只一命を賭して国に殉ずるには、それだけの成算と意義が要ります。同じ死ぬなら、確算ある手段を建てて戴きたい」
実際に芙蓉部隊の訓練を視察した軍の幕僚は、高いパイロット技術を持つこの部隊を特攻編成から外したとされます。そして、昼間に敵の目から隠れる秘密基地を探していた美濃部少佐の目に留まったのが、当時、機体の不時着場として放置されていた岩川航空基地でした。
芙蓉部隊は1945年5月から8月までの3か月の間、岩川基地から出撃を続けました。美濃部少佐が隊員に伝えていたのは「死を求めず、死を恐れず」。技量を誇る部隊でしたが、約1,000人の隊員のうち、105人が犠牲になりました。
前田さんは、隊長として「最善を尽くす」ことを貫いた美濃部少佐の行動には学ぶべきところがあると話します。
「美濃部さんは特攻以外に作戦がなかったのか、検討したのだろうかという思いがありました。その場の空気を読んで流れてしまう方が楽ですが、美濃部さんは自分の部下のことを思い発言した。どんな時でも自分が納得できない時は自分の意見を言えるような人間にならないといけない」。
前田さんは芙蓉部隊の存在をより多くの人に知ってもらおうと、3年前に静岡の芙蓉会メンバーから隊員の名簿をもらい、一人ひとりに連絡を取り遺影や遺品を探し続けています。これまでに約2~300人の遺族や元隊員に連絡を取り、関係者から約60人の遺影と約150点の遺品が集まりました。
遺族の中には「特攻隊員として生きて戻ることはないという悲しい気持ちではなく、生きて帰って来るとの思いで飛び立っていたとしたら救われます」などの声が寄せられたと言います。前田さんは「子どもや孫には絶対に戦争をしてほしくない。子どもたちには事実を正しく伝えていかないといけない。これは生きている人たちの責任。自分が動けるうちは、1人でも多くの遺影や遺品を集めたい」と話します。
もう1人、芙蓉部隊を伝える活動をしている人がいます。鹿児島県鹿屋市出身の落語家、桂竹丸さん(65)です。竹丸さんは知覧基地で「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさんの人生を、実話をもとに書き下ろした落語を創っています。竹丸さんは実家近くに防空壕などがあり、幼い頃から「特攻」を身近に感じていたと言います。
縁があって前田さんと知り合い、竹丸さんはかつて芙蓉部隊の落語を創りました。しかし、前田さんの活動を通して新たにわかる史実もあり、一から創り直すことにしました。芙蓉部隊をめぐっては、当時の関係者の間に様々な見方や回想があり、その評価は一様でない面があります。竹丸さんは今後も芙蓉部隊について取材を重ね、いつか落語を通して伝えたいと語ります。
「美濃部さんは与えられた環境の中で最善を尽くそう、できる限りのことはやってみよう、できなかったら仕方がないという思いだったと思う。これは今の社会でも通用する。私は落語家という語り部の1人として、史実を伝えることが未来への財産になる。若者の1人でも2人でも分かってもらえたら」。竹丸さんが芙蓉部隊に寄せる想いです。
2020年8月、曽於市埋蔵文化財センターに芙蓉部隊の展示室が完成しました。前田さんが集めた遺影や遺品を展示する場所がようやく作られたのです。取材した2022年7月8日も、遺族の許可を得た遺影が新たに飾られました。前田さんは「よく帰って来たね、お帰りなさいと話しかけたい。この方々がここで戦っていたことを、私たちは忘れてはいけない」と語ります。
岩川芙蓉会は2022年2月、「平和資料館」の設置を求める要望書を曽於市に提出しました。前田さんは遺影や遺品を収集しながら、資料館の設置に向けた活動にも力を尽くすつもりです。
「今もロシアとウクライナで戦争が起きている。(どんな時代であっても)その時の空気に流されず、最善だと思うことをする。子どもたちにこうした美濃部スピリッツを伝えるとともに、戦争の悲惨さや芙蓉部隊の存在を伝えていきたい」。前田さんは歴史を記憶する営みの意味を、強調しました(※記事に登場する方々の年齢は2022年7月時点です)。
制作:鹿児島読売テレビ
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