死の間際も家族に会わず 沖縄戦、ふるさと石垣島から最初に出撃した特攻隊長

1945年3月26日、沖縄本島に迫る連合軍への特攻が始まりました。沖縄戦で石垣島から最初に出撃した特攻隊員は、伊舍堂用久(いしゃどう・ようきゅう)さん。同じ石垣島生まれの24歳でした。彼はなぜ航空特攻で命を落とすことになったのでしょうか。家族の証言や遺品をもとに、生涯を見つめます。

歩兵希望から、思いもよらず航空科へ

伊舍堂さんは、1920年に石垣島の中心部、登野城(とのしろ)で生まれました。公務員だった父親は教育熱心だったといいます。旧制の宮古中学校進学の翌年、父親の転勤で那覇市内に引っ越し、沖縄県立第二中学校に転校しました。

県立二中の同級生とともに 前列中央が伊舍堂さん 県立二中の同級生とともに 前列中央が伊舍堂さん

伊舍堂さんの甥(おい)・用八さん(83)は、今も遺品を大切に保管しています。幼かったので叔父のことはほとんど覚えていませんが、親戚などから「家族思いの人だった」と聞いています。

「とにかく優しい人だったようです。音楽よりはスポーツが好きでしたね」

当時、中学校で優秀とされた生徒は、陸軍予科士官学校や海軍兵学校への進学を勧められました。伊舍堂さんは陸軍予科士官学校を受験し、同窓の4人とともに合格。その後、短期の部隊勤務を経て、指導者を育てる士官学校へ進みます。

伊舍堂さんは歩兵を希望していましたが、士官学校本科を修了する間際に陸軍が航空士官を増やす方針をとりました。転科を余儀なくされ、航空士官学校、陸軍飛行学校へと進んで飛行機の操縦を学びました。

宇都宮飛行学校時代 右が伊舍堂さん 宇都宮飛行学校時代 右が伊舍堂さん

台湾へ 通信筒に残された家族への思い

そして1943年、予科士官学校入学から5年を経て、中国・山西省の陸軍航空基地に配属されました。翌年に日本軍はマリアナ諸島を失い、本土防衛のために陸軍の航空部隊を大陸から台湾や沖縄に移動させます。伊舍堂さんも台湾に移り、南西諸島周辺に侵入してくる連合軍機動部隊に対する偵察飛行にあたりました。

大陸から台湾に向かう途中、伊舍堂さんはふるさとの石垣島上空を通過しました。そのとき、通信筒に「用久元気 台湾花蓮港に居ることになりました」と書いた手紙を入れて、自宅目がけて投下しました。

その優秀さから島では憧れの存在となっていた伊舍堂さん。手紙を一目見ようと家に訪れる人もいたといいます。手紙は今も地元に残されています。

伊舍堂さんが投下した通信筒 伊舍堂さんが投下した通信筒

特攻部隊の隊長に指名され、ふるさと・石垣島へ

1944年10月29日、フィリピン・レイテ島での作戦で初めて「特攻隊」が編成されます。爆弾を抱えた航空機ごと体当たりする必死の特攻は、アメリカに追い詰められた日本軍の最後の手段でした。

台湾の師団にも特攻部隊の編成が命じられました。伊舍堂さんはそのうちの一つ、第17飛行隊隊長に指名されます。翌年2月、ふるさと・石垣島の白保(しらほ)にあった基地に移動しました。宿舎として使用された前盛さんの家で、伊舍堂さんは出撃までの1カ月あまりを過ごしました。

伊舍堂さんが出撃まで宿泊していた白保の前盛家 伊舍堂さんが出撃まで宿泊していた白保の前盛家

この家に住む前盛喜美子さんは、両親から聞いたあるエピソードが印象に残っています。

「(伊舍堂さんの)お母さんとかお妹さんやお姉さんが、手作りのお重を持っていらっしゃるわけですよ。けれども一切お会いしませんで、(私の)父を通してお断りしたと」

すぐ近くにいながら家族に会わなかったのは、ふるさとに帰れず家族に会えない部下を気遣ってのことでした。

「いくら親子と言えどもお国のこととなるね、こういう悲しい状況もあるんだってよく父は残念がっていました。(家族への)思いは人以上に深かったと思うんです。ただそれを表面に出さなかっただけの話で。とても優しくて人望の厚いですね、隊員たちに気配りをとっても細かくなされていたということなんです」

当時、伊舍堂さんには、結婚を誓った女性がいました。婚約者の恵子さんにあてた手紙が残されています。

「海山遠く離れておりましても、お母様、恵子さまのことを思う心は何時も変わりありません」

特攻隊として組織された第17飛行隊。右から4人目が隊長となった伊舍堂さん 特攻隊として組織された第17飛行隊。右から4人目が隊長となった伊舍堂さん

「姉さんをよろしく」ふるさと・石垣島から出撃

アメリカ軍の機動部隊が沖縄に迫った1945年3月26日、伊舍堂さんの部隊は早朝に出撃しました。作戦は秘匿され、見送りはほとんどいなかったといいます。数少ない見送りの一人、義兄の石垣信純さんはのちにこう話しています。

「飛行場に駆けつけた時、すでにエンジンがかかっていた。飛行機に飛びつくと、振り返ってただ一言『姉さんをよろしく』と言って飛び立って行った」

伊舍堂さんは午前5時50分ごろ、慶良間諸島沖の機動部隊に突入して亡くなりました。第8飛行師団は空母1隻を撃沈し、2隻の空母と1隻の戦艦に被害を与えたと発表されました。しかし、連合軍側の記録には、この日に艦艇の被害があったとは記されていません。

沖縄戦は、6月下旬に組織的な戦闘が終わりました。あまりに苛烈な地上戦で20万人以上が犠牲になりました。沖縄住民の死者は12万5千人に上り、県民の4人に1人が亡くなったといわれています。

沖縄戦の特攻で亡くなった旧陸軍の隊員は1036人。先陣を切ったのは、ふるさとの海へと飛び立った一人の青年でした。

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この記事は、伊舍堂さんと沖縄県立二中で同窓だった又吉康助さんが1989年に著した「千尋の海 軍神・伊舎堂中佐の生涯」を参考にしています。

制作:鹿児島読売テレビ・Yahoo!ニュース

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