かつて自らの命をもって国のため、家族のためにと戦った多くの若者たちがいました。
太平洋戦争の末期、日本軍は連合軍の艦艇に対し体当たりで攻撃をする、いわゆる「特攻」の作戦を開始しました。熊本県で特攻隊を見送った女性は、隊員の残した1枚の写真を今も大切に持っています。「残していった写真は自分がいたことの証明のようなものでは」。あれから77年の時を経て、女性は残された写真をたどる旅に出ました。
太平洋戦争が始まったのは1941年。熊本県菊池市に暮らす、笠木シズエさん(87)は当時6歳で、国民学校に入学したばかりの頃でした。
「戦争がはじまってその頃は勝つ予定でしたから。村の中を日の丸の旗を立てて回った記憶があります」
しかし、徐々に戦況は悪化。夜は防空壕(ごう)で過ごす日々が続きました。父親は日中戦争から戦地に出たまま帰っておらず、母と弟の3人で身を寄せて過ごしていました。食べるものは芋しかなく、とても貧しかったと振り返ります。空襲をうけたときの恐怖は今でもはっきりと覚えています。
「うちに爆弾が落ちた時は、晴れていました。母と弟と3人で家の2階で布団を被って隠れた。怖かったですよ。今の飛行機のような音じゃない、破裂するような『ぶすっ』というような音がして、破片がバラバラと飛んできました。よく生きていたと思いますよ」
終戦を迎える直前の1945年春、いよいよ特攻作戦がはじまります。熊本県の菊池飛行場は、特攻隊が鹿児島の知覧基地から沖縄へ出撃する前の最後の中継基地となっていました。隊員たちの下宿先の近くに住んでいた笠木さんは、下宿先での食事に立ち会ったり、隊員たちが何度か家に訪れたりと交流がありました。しかし、まだ10歳の少女だった笠木さんの記憶は断片的で、年々薄れています。
「マフラーを兵隊さんたちが首に巻きよったのだけは覚えてます、白いマフラー。たたれるときに『ここの上を通って白い布をふるから、それが自分たちだと覚えておいてくれ』とおっしゃった。『何月何日には自分の命はなくなるって。その時には線香がなかったら紙をこよりにして立ててください』と言っていた...」
当時はありとあらゆる物資がなく、線香もありませんでした。まだ幼かった笠木さんも「もう会えない、この方々の命は最後だ」と思いながら旅立つ特攻隊を見上げ、紙で作った旗を振ったといいます。あの日の空の光景だけは時間がたっても忘れていませんでした。
笠木さんが取り出してきたのは、母から受け継ぎ、長年大切に保管していた特攻隊員の写真です。そこには2人の隊員が写っていました。
「名前書いてなかろ。こっちが菊池さん。東北の方でしたけどね。この人が知覧に行ったと思う。だから、私が知覧に行って写真を見つけたいと思うとですよ」
笠木さんはこの夏、はじめて鹿児島県の知覧特攻平和会館へと向かいました。
「わたしも先がないけんですね、この人たちを見送ってこにゃ」
姿を見たのは、77年以上前のほんのわずかな時間でした。母親が写真を大切に保管していましたが、それ以上のことはわかりません。しかし、記憶が薄れゆくほどに"確かめたい"という思いが強くなっていきました。
当時、沖縄戦に出撃する特攻機の多くが知覧の飛行場から飛び立ちました。知覧特攻平和会館には1036人のも写真が所蔵されています。笠木さんは館内に足を踏み入れると、持ってきた写真と顔や名前、年代などと照らし合わせていきました。
「あー、これだろう。顔立ちが似ていると思わない? 似ているよ、ほら」
笠木さんの元にあった写真に写っていた2人は、第109振武隊に所属していた菊池繁三郎さん(北海道・享年24歳)と武田次郎さん(静岡・享年21歳)だということがわかりました。2人は共に1945年4月に沖縄へ出撃し、亡くなっていました。
知覧特攻平和会館・学芸員 八巻聡さん
「菊池さん、武田さん、まさにこの2人ですね。笠木さんは当時10歳くらいであれば、かわいがってもらったんじゃないですか?」
笠木シズエさん
「そうです。だから忘れられなくて、どうしても捜したくて。捜しだすことができたからよかったです。本人ですよね、見つかったから安心しました」
笠木さんは2人の名前や出生地、出撃日、などをノートに書き記しました。
「自分の家族みたいにうれしいです。よかったです、見つけ出せて。涙が出てきました。一番最後はどうなっていたかなと思っていた。体当たりされているんだろうなと思っていたけど...きょうこれで間違いなかったと分かった」
1枚の写真をきっかけに知覧に足を踏み入れたことで、思い出したこともありました。
「その頃、やっぱり自分が死ぬということを考えていらっしゃったんだと思います。人に優しかったですね」
家族や友人ではなくても、たとえわずかな時間しか共にしなかった名前もわからない人たちだったとしても、自ら死に向かって進んで行った特攻隊の姿は、笠木さんの胸奥を長らく締め付けていました。
なぜ特攻隊は写真を託していかれたのだと思いますか? そう尋ねると「なんで、でしょうね...。自分がここに生存したということを証明するようなことじゃないかな」と答えました。
あのとき、命を落とした若者たちは確かに存在していた。当時を知る人がいなくなりつつある中、笠木さんは「もう面識があるのは自分しか残されていない」ということへの心許なさを明かしていました。写真を見つけて"安心した"という言葉には、多くの人に見守られていたことに対する安堵(あんど)がこもっていたのではないでしょうか。
終戦から77年。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻のニュースを見て、笠木さんは物悲しさを感じていました。そして、「忘れない」という思いを強くしました。
「戦争っていやですね。一人で起こすんじゃなくて国として起こすんだから。特攻隊はお国のために戦ってくださったんですけど、お国のために戦争をすることが間違っているんですから。みんなが平和に生きられる世の中が一番いいんですけどね。それをわかっているのに、なかなか世の中からなくならない。戦争はもう懲り懲りです」
取材・文:KKT熊本県民テレビ戦後77年特集班 藤木紫苑
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