横浜米軍機墜落事件から40年

1977年9月27日、神奈川県横浜市郊外に米軍機が墜落し、三人の母子の命が奪われました。長年にわたってこの事故を取材してきた神奈川新聞社とともに、記事とコンテンツを制作、事故の経緯と関係する人々にどのような影響をおよぼしたのかを伝えます。


解説記事

事故で奪われた母と二人の子の命

終戦から30年余を経た1977年。安定成長期に入り、大規模な宅地開発が進む横浜郊外の住宅地に、米軍機が墜落しました。2人の幼児が犠牲になった墜落現場に、その痕跡は残っておらず、今なお、その頭上を米軍機が飛び交います。遺族らは静かに、悲惨な事故を語り継いできました。

転がっているエンジン 「墜落した米軍機のエンジン。ジェット燃料が撒き散らされ激しい火災を引き起こした」

1977年9月27日午後1時過ぎ、在日米海軍厚木基地を離陸した偵察機(ファントム)が燃料満載の状態でエンジン火災を起こし、横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落。多数の周辺家屋を炎上、全半壊させました。ファントムの乗員2人は機外に緊急脱出し、無事でした。

市民9人が負傷し、次々に病院に。「バイバイ」の言葉を残し、土志田和枝さんの長男裕一郎ちゃん=当時(3)=が翌28日午前0時40分に死亡。次男康弘ちゃん=同(1)=も同日未明、「ポッ、ポッ、ポー」と鳩ポッポを口ずさみながら息を引き取りました。

全身にやけどを負った和枝さんは皮膚移植の手術を繰り返し、長期にわたる入退院を余儀なくされました。1年半後の79年1月29日、和枝さんに隠されていた愛児の死が知らされ、慟哭の中、「2人の子を今一度だけ抱きしめたかった...」。リハビリを行えるまでに回復した和枝さんでしたが、事故から4年4ヶ月後の82年1月26日、呼吸困難により亡くなりました。

小さな二つの棺 「長男の裕一郎ちゃんと次男の康弘ちゃんの二人の子の死は、一年以上和枝さんに知らされなかった」

80年、事故で妻が重傷を負った男性が乗員の米兵と日本を相手に提訴。87年、横浜地裁は国の賠償責任を認めました。

88年、和枝さんの父・土志田勇さんが遺志を継いで社会福祉法人を設立。青葉区に慰霊碑とともに「ハーブガーデン和枝園」が設けられ、以来、四季折々の植物が事故があったことを後世に伝えています。

制作:神奈川新聞 ・ Yahoo!ニュース
取材:2017年8月

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