太平洋戦争の末期、日本国内でアメリカなどの連合軍による空襲が激しさをましていた。おびただしい数の爆撃機が都市を襲い、死者は50万人に上った。その裏で、日本の各地に墜落し、捕らわれた連合軍兵士がいたことはあまり知られていない。そうした歴史には、深い闇が隠れている。農村地帯に墜落し、生き延びた連合軍兵士を目の当たりにしたのは、一家の大黒柱や子どもたちを戦争で失った住民たち。空から降ってきた、死ぬほど憎い敵を前にした時、人はまともでいられたのだろうか...。(福島中央テレビ)
1945年4月12日午前11時過ぎ、136機もの米軍のB-29爆撃機が福島県郡山市の空に現れた。農業や工業が発達した開拓の街は戦中、「軍都」の一つとなった。集積する軍需工場を目がけ、大量の爆弾が投下された。工場に勤労動員されていた白河高等女学校の須釡千代さん(93)は、けたたましく空襲警報が鳴り響く中、防空壕(ごう)へと駆け出した。
「建物のそばに寄っては耳をふさいで、機銃掃射を避けながら寮の近くの防空壕まで行った」。必死の思いで防空壕までたどり着くと、中はおびただしい数の人で溢れかえり、ぎゅうぎゅう詰めの状態だった。
「(防空壕の)入り口と出口が両方にあってみんなが入るんですけども、ダダッダダッと機銃掃射の度に崩れて怖かった。みんな頭を寄せ合って重なり合って入っていた。中でみんな息がふうふうと大変だった。暑くて。息苦しくて...」
機銃掃射、そして爆弾の爆発音が轟く中、死の恐怖に耐えながら、ただ、祈るしかなかったという。ようやく防空壕を出られたのは、約2時間半後だった、そこにあった工場や寮は燃え、無残な姿を晒していた。
この空襲で、白河高等女学校の生徒14人を含む460人以上の命が奪われた。
「残念ながら自分の気持ちを全然伝えることなく、表現することがなく、命を奪われていった。友達のために語り継ぐということが、その人たちへのお礼かな」
その後も、空襲が激しさを増し、福島県の阿武隈山地にある滝根町は8月9日から2日間、連合軍の空襲を受けた。そのうちの1機がJR磐越東線の神俣駅近くに不時着した。当時13歳だった先崎敏さんは、そのことを鮮明に覚えていた。
「『飛行機が落ちたー』『鉄砲持って一緒に前の山に逃げたー』って。そういう声が上がって、『それー』って追ったわけだ。大変だった。刀と竹槍(やり)を持って、兵士を皆で追ったんだ」
夫や親兄弟、息子を戦争に駆り出され、苦しい生活を強いられていた町民たち。敵機不時着の一報を聞くや否や、2、3百人の男たちが武器を手に、山の中に逃げたイギリス兵2人を追った。「絶対に捕まえて敵(かたき)をとってやる」と、怒りが自分たちを駆り立てていたという。
「(もし敵が目の前に現れていたら)当然、竹槍で突き殺していたと思うな。残酷だとかはなくなってしまう。明日は自分が死ぬかわからないのだから、戦争を起こせば、みんながそういう残酷な人間に変わっていくのは間違いない」
不時着した2人のイギリス兵は、殺気立つ住民に恐怖を感じ山の奥の奥へと逃げ続けた。しかし2日後、その山を隔てた隣の川内村の住民に捕らえられる。川内村もその時の空襲で3人が亡くなっていた。当時10歳だった石井金彦さんがその時の状況を教えてくれた。
「『いまから捕虜を連れてくるぞ』と、村民に御触れがまわったんです。私たち外国人を見たっていう経験はありませんのでね。だから、どういう動物なのか、人間なのかもわかんないぐらいで...。そしたらそんなに背は大きくない、茶色の髪をした男が、いかにも恐怖感におののいて立っていた。私の家も2日前の空襲の焼夷弾(しょういだん)で焼かれてしまいました。村民が怒号で『この野郎!この馬鹿!』とか、棒で叩こうとした人もいました。(殺せという声も)ありました。それは当然です。でも私の目に映ったのは、恐怖に震える生身の人間だった。言葉にはできなかったけれど『可哀そう』と感じたのでしょう。憎いとは思いませんでした。そして、このあと2人は殺されたと思っていました」
しかし、戦後63年経った夏、姉と甥(おい)からその後の話を聞いた。「捕虜を殺すことはできないんだ!」と2人を村民から引き離し、連行した役人が居たのだ。自分たちが襲った敵国で殺される恐怖を体験した2人の兵士...。捕虜になって終戦後母国に帰国した2人は、この村には命の恩人がいたと再会を願い続けていたという。
軍都である郡山市も、同じ日に空襲を受けた。連合軍の戦闘機は、郡山空襲を終えて航空母艦に帰還する際、残った爆弾などを滝根町や川内村に投下したとみられる。郡山市内では航空隊などが壊滅状態となっていた。
そして8月10日、郡山市内にも連合軍の戦闘機が墜落した。当時小学2年生だったという男性が取材に応じてくれた。墜落現場は家のすぐ近くだったという。
「兵士は落下傘(パラシュート)で落ちたんだけど、開かなくて、足を折ったのではないかと聞いている」
連合軍の戦闘機が墜落した場所は、いまは雑木林となり、操縦士がパラシュートで降りたという畑は荒地となっていた。本土決戦もささやかれる中、突然、敵兵が空から舞い降りた時、人々はどんな行動をとったのか。2人の男性に話を聞くことができた。
当時25歳、消防団員だった男性は「いま飛行機が落ちたって言われて、駆けていったんだ。その時は生きていた。体格のいい...上下続きの服着てて。だけど、兵隊がその男を連れていっちまった。わかっているのはそれだけだ」と話した。
もう一人、当時16歳の少年だった男性は興奮気味に語った。
「毎日竹槍で練習していたから、竹槍を持ってみんなして行ったわい。そしたら(落ちた兵士が)立とうとしたんだ。んで、ぶっ殺したわい。みんなして竹槍でつついたから、死んじゃったわい。『やめろ!ダメだ!』なんでいう人はいないわい、敵だから。戦死者がいる家の人は、敵とってやったぞって仏壇に手を合わせて報告した人もいたな」。
その5日後、終戦を迎えた。捕虜にすべき兵士を住民たちが殺したとなれば、国際条約違反の戦犯となる。戦後、連合軍の調査が始まると、地区の数人が呼び出されて調べを受けたというが、沈黙を守り、誰も罪に問われることはなかった。その後も人々はこの事件に関して口をつぐみ、タブーとしたという。
兵士の遺骨は、郡山市・如宝寺に安置された。住職が先代から話を聞いていた。
「寺ですから敵味方の区別はないので、亡くなった人はすべて仏様ということで同じように供養してお祀りをしていたそう。何年か経ってアメリカ軍の調査があって、日本で落ちた米軍の飛行機があったが、乗組員がどうなったかということで調査に来た。案内してここで御骨を米軍の人に返したと聞いている」
骨を持ち帰ったアメリカ軍の関係者は、兵士が墜落後に殺されたことは知らない。この寺では毎年、4回の郡山空襲で亡くなった528人を追悼する慰霊祭を欠かさず続けている。郡山空襲や戦地で亡くなった人、不時着し住民に殺された米兵。どちらも戦争で命を落とした被害者に変わりはない。
4月12日、この寺では今年も郡山空襲の犠牲者など戦没者を追悼する慰霊祭が行われた。そこに郡山空襲の中を生きのびた須釡さんの姿があった。終戦から78年、須釡さんは墜落したアメリカ兵が殺された事実を初めて知った。
「撃たれる時は本当に命はないと思う。だからその人たちが目の前に現れたら戦わなくちゃいかんと思う気持ちはわかります。冷静になって何年か過ぎればそういうことまでしなくてもいいかと思うけど...。お互いに殺したり殺されたり、そういう殺伐とした生活はもうしたくない」
15年前の取材を掘り起こし、もう一度兵士が殺された地区にいくと、「私たちは知らない」といいながら「あの、よろしくない話のこと...」と話を濁された。地区では、この話を今も触れてはいけないこととしているようだ。被害の歴史に埋もれてしまった加害の事実。私たちが語り継がなければいけないことが、まだまだ残されている。
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