木造住宅が連なるのどかな浜辺に、火炎を吐く輸送艦が突っ込む。上空から米軍機が迫り、火煙が上がる――。第2次世界大戦末期の1945年8月9日、松山市沖の津和地島で旧日本海軍の第21号輸送艦が座礁し乗組員63人が犠牲になった戦闘を克明に記録した映像があります。米軍機が撮影したガンカメラ映像です。
「ドカーンドカーン」。12歳だった女性は、いつまでも続く破裂音を聞いたといい、「手や足のない重傷者もいたと聞いた」と証言します。当時を知る人に映像を見てもらいつつ、住民の目の前で起きた惨劇を振り返りました。(取材・文:愛媛新聞取材班 今西晋、仙波朋子)
「うわー、相当やられとるねこれ。白いのは機銃弾やろうか。すごい音がしたからな。かわいそうになあ」。当時島に住んでいた松山市余戸東4丁目、仙波洋三さん(88)が食い入るように映像に見入りました。
洋上の輸送艦に何度も降下し、雨のように機関銃弾を浴びせる米軍機。艦の周囲に水しぶきが上がり、艦内からも火や煙が上がります。輸送艦側も懸命に対空砲火を打ち上げますが、圧倒的な機銃掃射の前には無力。火炎を吐きながら、のたうつように島の湾内に逃げ込んでいきます。
津和地島は、愛媛と広島の県境に近い面積3平方キロ足らずの島です。仙波さんは当時、父が校長を務める津和地国民学校(小学校)5年生でした。前月までは松山市街地の学校に通っていましたが、7月26日の松山大空襲で自宅が全焼。市内の親類方に身を寄せましたが、そこでも米軍機の機銃掃射を受けました。8月7日、母や弟妹とともに父が単身赴任していた島の学校官舎に移住しました。海がすぐ近くにあり、山には段々畑が広がるのどかな島の暮らしを始めたばかりでした。
9日は、よく晴れた風のない夏の日でした。「午後は海に(泳ぎに)行こうかな、と言いよったところやったんですよ」。海のかなたから、バリバリバリバリという機関銃の音、時折ドーンという爆発音が聞こえてきました。「すごい音やった。あれはびっくりしたですよ。だんだん近づいてきて。父に『外に出るな』と言われたんで家でじっとしていました」
執拗(しつよう)な銃撃音と爆音。仙波さんは1時間にも感じたと言います。「そのうち、ドーンというすごい音と衝撃があった。あれはすごい音やった」。輸送艦が浜に乗り上げた時の音と衝撃を、仙波さんは今でもはっきりと記憶していました。ガンカメラの映像は記憶を裏付けるように、輸送艦の断末魔の様子を伝えていました。
映像は約10年前、元今治明徳高校矢田分校教諭の藤本文昭さん(56)=今治市=が米公文書館を調査し、持ち帰ったものです。映像に攻撃地点や日時は記録されていませんでしたが、地元の戦史を研究している愛媛大大学院修士課程2年の竹中義顕さん(23)=松山市=が分析。島の地形や艦型、航路などから第21号輸送艦の映像と特定しました。
竹中さんは、日米軍両軍の記録も調査しました。米軍資料によると、攻撃したのは当時占領下にあった沖縄の伊江島基地から飛来した陸軍のP47戦闘機76機以上です。強力な武装、高速力を誇る最新鋭機でした。松山市の松山海軍航空基地(現在の松山空港)を攻撃した後、伊予灘を航行していた輸送艦を発見し、ロケット弾や機銃掃射で攻撃を開始しました。
日本側記録によると、輸送艦も45年7月15日に完成した最新型でした。ガダルカナル島などでの輸送作戦失敗をふまえて建造された対空火器が充実した艦で、米軍側記録では「駆逐艦」と誤認されるほどでした。この日の輸送艦の任務は、人間魚雷「回天」の搬送でした。訓練基地の山口県大津島で回天を積み和歌山県の基地に搬送するため、約200人の乗組員を乗せ午前8時に広島県呉軍港を出ました。11時すぎ、伊予灘を航行していたときに米軍機に捕捉されました。
輸送艦に乗り組んでいた先任将校兼航海長の高木美佐男大尉が戦後、悲惨な戦いを克明に回想録につづっています。 <一体何機の小型機が反復攻撃して来たものか全然分からず、艦橋廻(まわ)りは戦死傷者で歩くこともできませんでした>
艦長が負傷したためナンバー2だった高木さんが指揮を執り、乗組員の生命を守るため艦を座礁させると決断しました。目的地は、津和地島の砂浜。平和な島の悪夢の始まりでした。
「輸送艦が積んどった弾薬が破裂したんでしょうか。ドカーンドカーンと、いつまでたっても破裂する音がして。気持ち悪かったですよ。そしたら『救護班下りてこい、下りてこい』と声が聞こえて、みんなが(乗組員の)救助にあたったんです」。現在も島に住む桑原ヨリコさん(90)が、恐怖を振り返ります。輸送艦が接近した時には、空襲警報を受け山中の防空壕(ごう)に逃れていました。
桑原さんは当時12歳でした。45年4月に入学し、7月中旬まで松山市の親類方に下宿して女学校に通っていましたが空襲が激化。「防空壕に隠れながら通学する毎日で、勉強もしやへんですけんな」。安全が脅かされるようになり、島に帰っていました。
桑原さんの父は警防団長、母は婦人会長を務める島のリーダーでした。輸送船が浜辺に突っ込み米軍機の攻撃がやむと、率先して乗組員救助に当たりました。役立ったのは、自宅に備蓄していた着物でした。「それをさばいて包帯にして。それ巻いて重傷者を松山や広島の方の病院へ運んだんです」
自宅にも数人軽傷者を受け入れていました。若い桑原さんは救助への参加を求められず、幼い妹を世話するのが役目でしたが、軽傷者と会話する機会がありました。「『恐ろしかった?』と聞いたら黙ってうなづいた。兵隊はみんな若い人やった」
重傷者は、小学校校舎に運び込まれました。仙波さんが住んでいた官舎は、小学校の敷地内にありました。校長の父は救助などの仕事で外におり、母と弟妹の4人で家にいました。
「負傷した人も亡くなった人もみんな運び込まれた。父が『絶対外を見たらいかん』言うて。だから見てはないんやけど、人がざわざわざわざわ通るのを(聞いた)。うめき声とか。3時間以上、夏の日の夕方まで続いたね」。仙波さんは後日、島の住民から「手や足のない重傷者もいた」と聞かされ、悲惨な様子の一端を知ることになります。「島の人からすれば悪夢やったろう。子どもにはそんな場面を見せんわね」
住民が津和地島などの歴史を記述した「神和三島誌」によると、島民らの介抱のかいなく乗組員58人が亡くなり、翌日島の浜辺で火葬されました。乗組員の戦死者は計63人にのぼったとされています。
指揮を執り続けた高木さんは戦闘で右目を失明、右腕を切断され、右股関節盲管銃創を負いました。しかし戦後、神戸市の自宅から不自由な体を押して毎年のように島を訪れ、戦友の供養を続けました。
現在島内には、慰霊碑が2カ所あります。元乗組員と島民有志が85年、輸送艦が座礁した浜を見下ろす寺に「慰霊碑」を建立しました。碑には戦死者全員の名前と出身地が刻まれ、島民の温かい手当てへの感謝がつづられています。
寺の先代住職加藤孝雄さん(故人)は手厚い供養を続けました。現住職の加藤正法さん(63)は、高木さんらは毎年夏に慰霊碑を訪れ清掃していたと振り返ります。「家族に車椅子を押してもらいながら、戦友と一緒に寺の坂を上ってくる姿を覚えてますよ。十数年前までは(元乗組員の)何人か年賀状も交換していましたが、亡くなったと連絡があったりして途絶えてますね」
戦死者が火葬された浜辺には88年、高木さんらが「平和の碑」を建立しました。「世界人類の悠久の平和を切望し」との願いが刻まれています。碑は津和地小学校児童が毎月欠かさず清掃していましたが、2017年に児童がいなくなって休校となり、再開する見通しはありません。現在は年1回、島内清掃する日に住民が清掃を続けています。
島は今、急速に人口減少と高齢化が進んでいて、1983年6月現在で263世帯929人いた人口が、2020年10月現在124世帯225人。住民によると常時居住する人は100人ほどといいます。
戦後生まれの住民八木住夫さん(76)は輸送艦座礁を直接見てはいませんが、島を訪れた戦死者の遺族を慰霊碑などに案内した経験があり「遺族が『美しい景色の中で温かく供養してもらった』と喜んでくれたことが救い」と振り返ります。
米軍機のガンカメラ映像を見て「一方的な殺りく。むごいことよ」と戦争への憤りをあらわにしつつ、惨事が未来に伝えられなくなることを危惧しています。「島にとっては大事件だったが、当時直接見た人は亡くなり、語られる機会も少なくなった。このままでは記憶が継承されなくなる恐れがありますね」
取材・文:愛媛新聞取材班 今西晋、仙波朋子
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