2022年、戦前に撮影されたフィルムが福島県と北海道の個人宅で相次いで見つかりました。地域のイベントや家族の暮らしを記録した映像には、迫りつつあった戦争の気配が色濃く映し出されていました。限られた人しか映像が撮影できなかった時代、検閲を受けていない個人撮影のフィルムは希少なものです。しかし、内容が確認できずに処分されてしまうケースがあります。専門家は、貴重な映像を発掘して社会で共有するための新しい仕組みが必要だと訴えます。
(このページの映像をご覧いただきながらお読みください)
ドイツからやってきたナチスの若者たちとサインを求める日本の子どもたち、東京から疎開してきた子どもたちの運動会、そして神社の村祭り。
福島・会津若松市で発見された1930年代のフィルムには、戦争に向かう時代に懸命に生きる人々の姿が記録されていました。
東京・北区にある聖学院高校3年生の佐藤佑哉さんと大川功先生は昨年5月、福島県に学童疎開の調査に行きました。戦前に写真館を営んでいたお宅を訪問すると、倉の中にフィルムが保管されていたのです。2人は27本の9.5ミリフィルムの寄贈を受けました。
当時、家族や地域のイベントを映像で記録するのは、写真館の経営者や経済的に余裕のある人など限られた人だけでした。佐藤さんは、フィルムが残されていたことに驚きました。
「この研究をしてきて良かったなと思います。一地方の記録ではあるのですが、時代の持つ雰囲気や戦争が町に落とした陰影を身近に感じることができます」
大川先生は、映像の力を実感したといいます。
「これまでは、歴史を活字の情報で勉強するしかなかったのですが、動く姿と表情があるということで色々な想像が膨らみますね」
福島・会津若松市の写真館から見つかったフィルムには、戦場に向かう兵士や見送る人々、戦地から帰還する兵士が記録されていました。福島県会津若松は軍都、つまり陸軍の拠点でしたが、映像がはっきりとその事実を伝えています。
会津若松では、陸軍歩兵第29連隊と65連隊の2つの連隊が編成され、どちらも日中戦争から太平洋戦争の最激戦地に向かったのです。
1937年の秋に撮影されたフィルムに、この夏勃発した日中戦争に向かう第65連隊の将兵たちが記録されていました。街中を行軍して会津若松駅に向かい、大勢の家族や地域の人々に見送られています。
同年7月に北京郊外での盧溝橋事件が起き、日中両軍が衝突しました。それに伴い激戦となった上海に、会津の65連隊はその過酷な戦場に投入されています。
65連隊は、南京攻略戦などに参加後、中国各地を転戦します。終戦間近には中国大陸を数千キロ踏破する「大陸打通作戦」に参加させられ、多くの兵士が命を落としました。
会津のもう一つの部隊、29連隊が帰還する映像もありました。兵士の多くが首から遺骨の入った白木の箱を下げています。1939年10月の映像と思われます。29連隊は、中国での徐州会戦、ソ連軍と激突したノモンハン事件に参戦したのちに一時帰還しました。
29連隊は太平洋戦争が始まると1942年のガダルカナルの戦いに投入されます。そして、29連隊の9割以上の将兵がここで戦死するか、餓死しました。
1938年の夏に撮影された映像には会津を訪れたドイツ人が映っていました。ナチスドイツの青少年組織「ヒトラーユーゲント」の若者30人です。
1936年、ソビエトの共産主義を共同で押さえ込もうと、日本とドイツは日独防共協定を締結。その絆を強めるためにやってきた若者が1938年の8月からおよそ3カ月間、日本全国をめぐって日本の若者と交歓したのです。
会津若松駅では、数多くの住民が日独の国旗を掲げながらバンザイを叫んで大歓迎していました。
一方、この2年後の札幌市で撮影されたフィルムには、1940年の日独伊三国同盟締結を祝う人々の様子が映っていました。札幌市役所に、日の丸とともにハーケンクロイツの旗が掲げられて、多くの人々が楽隊も交えてパレードをしています。
いずれも破滅的な戦争に突き進んだドイツと日本、その両者が接近して、国民もその連携を受け入れる姿が記録されていました。
この北海道の映像を撮影していたのは、当時地元の銀行に勤めていた井須荘二さんです。カメラが趣味で、家族の様子や地域のイベントを撮影していました。
井須さんの撮影した映像は、沖縄で発見されました。ネットオークションで入手されたフィルムが、映像を研究する団体「沖縄アーカイブ研究所」に持ち込まれたのです。
代表の真喜屋力さんは、箱にイベント名などが書いてあったことから貴重な映像だろうと予想してデジタル化をしたといいます。
「案の定素晴らしいものが出てきました。時代の空気感が映っているので、大きなトピックではないにしても価値のあるものだと思います。 全ての映像が結びついていって、戦争になだれ込んでいく姿が読み取れます」
井須さんの撮影した映像に、運動会が映っていました。タイトルは「となり組運動會」。「隣(となり)組」は日中戦争勃発後、国民を総動員するために組織された地域コミュニティーです。パン食い競走など工夫を凝らして、大人から子どもまでが楽しんでいる様子がわかります。
会津の映像も、地域と戦争の関わりのあるさまざまな出来事が数多く刻まれています。
1938年秋、南京陥落後の臨時首都とされた武漢が攻略されました。フィルムでは万歳して喜ぶ人々が映っていました。1942年2月には、太平洋戦争でイギリスの拠点だったシンガポールが陥落。それを祝う人々も映像に残されていました。この時は、大雪の中で日の丸やプラカードを掲げながら住民の行進が行われたことがわかります。
当時のニュース映画などは、検閲や当局の指導のもとでしか取材や制作ができませんでした。 しかし、一般の人が日常を撮影したフィルムは、まだどこかに眠っている可能性があります。
映像の研究を続ける東海大学の水島久光教授は、廃棄される前に発掘し共有する仕組みが必要だといいます。
「1930年代前半、満州事変の頃から太平洋戦争開始の頃までに日本でアマチュア映画が広がりました。同時に、いろいろな国家総動員に関わるイベントが開かれていて、それを全国各地で市民が撮影していましたので、これからもこうした映像が出てくる可能性はあります。これらの映像記録は、戦争に向かっていくムードは特別なことでなく、暮らしの中に日常のイベントとして入り込んでいることを語ってくれています。現代の私たちが、いつの間にか戦争に向かっていたということにならないように、しっかりフィルムを見届けなくてはいけないと思います」
人々の感情や希望を生き生きと残す映像は、時代の証人になります。各地の眠るこうした映像を発掘し、社会で共有する、そうした新たな仕組みが求められています。
制作:Yahoo!ニュース
協力:北海道新聞
取材:2023年2月
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