戦争に全てが注ぎ込まれた当時の日本。食べるものから日用品まであらゆるものが欠乏する中で、人々は普段の暮らしになんとか喜びを見出しながら前を向こうとしていました。
そんな戦争の中の日常や、あるいは戦争がどんな風に生活を変えてしまったのか、これまで「未来に伝える戦争の記憶」の取材・制作の過程でお聞きしてきたみなさんの話から特集します。
「一高女の、ひめゆりの一番自慢できるのは我々の在学中にプールができたことですよ」
1943年2月、生徒たちが積み立ててきたお金で、沖縄初のプールが当時の県立一高女・女子師範(通称「ひめゆり」 )にできたのです。
「落成式にオリンピック選手も招かれたんですよ」
プールはできたものの、島袋さんは水着が手に入らなかったので、母親の古着の絣(かすり)の着物を裁縫屋さんで水着に仕立て直してもらいました。
でも、着物は水泳には向いていませんでした。
絣は主に普段着用の着物で、布地が厚いので水を吸ってしまったのです。
「それで泳いだら、水を含んで、ましてや、海水でなくて淡水プールですからね。浮きもしない上、重くて沈むわけですよ。いつまでも浮かなかった思い出がありますね」
1年半後の10月、那覇市には激しい空襲があり、その翌年には米軍が上陸、プールもろともひめゆりの皆さんの学びやはがれきと化しました。戦後も学校は再建されることなく戦争とともに姿を消したのです。
その沖縄戦では、一高女・女子師範の生徒と教師227人が犠牲になりました。
鹿児島の空襲で火傷を負って故郷の奄美大島名瀬町(現奄美市)に帰った岡登美江さんは、街もそして家もすっかりなくなった光景に息を呑みました。
でも、祖父母が無事でほっとしました。
「うれしくてうれしくて、その晩は黒砂糖を舐めて」
戦争が終わると奄美は、沖縄と同じく日本から切り離されて米軍政下に置かれました。食べるものも満足に手に入らず、島での暮らしは困窮していました。奄美群島は、軍事的価値がないとされ、物資や資金は沖縄に集中していたのです。
「黒砂糖を鹿児島に持って行ったら10倍になる、そういう時代でした」
終戦から4年、小学6年生の岡さんは、体調の悪かった母に代わって密航船に乗って黒砂糖を鹿児島側に持って行くことになりました。食料などと 交換するためです。当時、本土と米軍支配の奄美の間は行き来が禁じられていました。
岡さんは、喜んで行くことにしました。
「私は、鹿児島に行ったら少女ブックを読んだり、おいしい兵六餅やボンタン飴が食べたりできると思って、単純に行く、行くって言ったんです」
夜の真っ暗な中、密貿易の小船に乗り込んで奄美大島をたち、島伝いに"国境"の島、「口之島」を目指しました。昼間は島陰に隠れてようやく4日目に到着しました。
砂糖樽の間に身を潜めた岡さんは、船酔いに苦しみました。
「もう戻すものもなくなって血を吐いたんです」
口之島には、おじさんが住んでいて、白ごはんをいっぱい食べることができました。1週間後お菓子などをたくさん持って、また4日かけて奄美に戻りました。
「カバンに入れた兵六餅やおいしいものを妹や母に食べさせたい、その希望だけで」
奄美大島に戻った岡さんは、無我夢中で家に帰りました。
「お母さん、お母さんって戸を叩いて。お母さんが飛び起きて、 『登美江!』 って息ができなくなるほど抱きしめて」
そのまま寝込んだ岡さん。翌朝、母親は「死ぬまで、このことは人に話していけないよ」と言ったそうです。
奄美群島はそれから4年後の1953年12月、日本に復帰しました。
しかし、沖縄本島以南の島々が本土復帰するのは、それから18年あまり先のことでした。
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