東京大空襲から避難 リヤカーに家族を乗せて避難した父が、お礼を伝えたかった女性

東京大空襲から避難 資料:東京大空襲

私は1945年5月生まれです。

1943〜1944年ごろ、父(明治36年生まれ)は東京北区から鎌倉にあった(今もある)学校に音楽教師として通勤していました。

ある日、鎌倉の海の砂を我が家に持ち帰り姉(1942年3月生まれ)の砂場用に布袋に入れて電車(汽車?)に乗ったそうです。

途中で警察官か憲兵さんに中身の点検をされたそうです。多分闇米と間違えられたのでしょう。中身が砂だったので点検した方も苦笑い。周りの方からも笑い声が上がったとの事。戦時中の緊張した車内でのホッとした時間だったと聞いています。

その父は1945年3月の東京大空襲を北区中里から見て、私がお腹にいる母と3歳の姉をリヤカーに乗せて、北区から横浜戸塚(疎開先)まで、焼夷弾から逃げながら移動したそうです。

その後もリヤカーで家財を何度か運んだようです。

その際多摩川付近でパンクをして、用意していた部品で修理を試みたもののバケツがなく、パンク箇所が探せず困っていたところ「お困りのようですね?」とバケツを貸してくださった女性がいらして、パンクを直すことができた。との事!

晩年その方にお礼が言いたいと言っておりましたが、願い叶わず、昭和54年に他界いたしました。

私にとっても悔やまれる事です。


■投稿者
横浜市、80歳女性

寄せられた情報一覧に戻る

戦争の記憶 記事一覧

未来に残す 戦争の記憶 トップへ