硫黄島からの手紙 「玉砕の島」で家族思う

1945年2月、小笠原諸島の硫黄島に米軍が上陸、日本軍守備部隊と激突しました。東西8キロ南北4キロの島で、ひと月余りも苛烈な地上戦が繰り広げられ、両軍で2万9000人もの戦死者が出ました。日本軍部隊を指揮したのは栗林忠道司令官、映画「硫黄島からの手紙」で渡辺謙さんが演じるなど語りつがれています。一方、栗林司令官に次ぐ地位にありながら現地で更迭された上に戦死した悲運の将軍がいます。大須賀応少将です。あれから75年、生前の姿を知る唯一の親族という三男が、父への思いを語ってくれました。北海道新聞による取材です。


解説記事

太平洋戦争末期、硫黄島(東京都小笠原村)では日本兵約2万2千人が戦死し、道内出身者約700人も犠牲になった。札幌出身の大須賀応(おおすか・ことお)少将(享年51歳)はその1人で、今も遺骨は発見されていない。三男の直(ただし)さん(87)=茨城県在住=は亡父が戦地から送った手紙14通を大切に保管している。戦後75年の節目に、家族への思いをつづった手紙を読み直しながら、戦争と平和に思いをはせている。

「母が疎開先まで持っていった、父の生きた証しです」。12歳の時に旭川で終戦を迎えた直さんは、色あせた便箋を前に話した。

手紙と写真を前に「優しくしてもらった思い出しかない」と生前の父について語る大須賀直さん=2020年7月、茨城県内の自宅(酒井聡平撮影) 手紙と写真を前に「優しくしてもらった思い出しかない」と生前の父について語る大須賀直さん=2020年7月、茨城県内の自宅(酒井聡平撮影)

父の応さんは1894年(明治27年)、旧篠路村(現札幌市)で屯田兵の子として生まれた。旧制札幌中(現札幌南高)から陸軍士官学校に進み、砲兵を指揮する軍人になった。硫黄島では初代旅団長として主力部隊を率い、1944年(昭和19年)12月に更迭されたが、島に残った。

映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)で、最高司令官の栗林忠道中将と対立する架空の人物は、応さんがモデルとの見方がある。更迭の理由について旧防衛庁の戦史叢書(そうしょ)は、栗林中将が砲兵ではなく、歩兵の指揮官を望んだことを挙げる。

応さんが東京の自宅から戦地に向かったのは44年春。行き先は小笠原諸島の父島だった。「まだ敵の飛行機は島に来ません。お父さんががんばって居るので恐ろしいのでせうアハ」。同年6月に直さんに宛てた手紙はこう書かれていた。

戦時中、父から届いた手紙。当初の差出元は「父島」(左端)だったが、その後、「ウ二七」(中央、右端)に変わった= 7月、茨城県内の自宅(酒井聡平撮影) 戦時中、父から届いた手紙。当初の差出元は「父島」(左端)だったが、その後、「ウ二七」(中央、右端)に変わった= 7月、茨城県内の自宅(酒井聡平撮影)

その直後から、手紙の差出元は、暗号の「ウ二七」に変わった。サイパンが陥落し、父島から約300キロ離れた硫黄島が本土空襲阻止の要衝となった時期と重なる。直さんは「母が誰かから『ウ二七』は硫黄島だと知らされ、私に教えてくれた」と言う。手紙は米軍の空襲に備え、「(防空壕は)一人用が一番安全です」などと家族に自衛を促す文が目立つようになった。

戦史叢書では、応さんは45年3月26日、ほかの兵士と共に玉砕したとされる。遺骨の箱は空で、最期はよく分かっていない。大黒柱を失った一家4人は困窮した。母は旭川で農地を耕し、生計を支えた。直さんは旭川東高から東大を経て日立製作所に就職。父を思い出すことは少なくなった。

戦前に撮影されたとみられる家族写真。右端が大須賀応少将で、右から3人目が直さん(大須賀直さん提供) 戦前に撮影されたとみられる家族写真。右端が大須賀応少将で、右から3人目が直さん(大須賀直さん提供)

転機は2003年。晩年の母と暮らした長男が他界し、遺品から応さんの手紙が出てきたことだった。11年には硫黄島の慰霊巡拝に参加。島内には約2万9千人が死傷した米軍の碑もあった。「両国の多くの国民が家族を失った。戦争が生み出すものはない。硫黄島の戦いにも勝者はいない」

今年7月、直さんは父の最後の手紙を読み返した。日付は45年2月4日。「東京は寒いでせう」と始まり、「東京の空襲はどうですか」と家族を案じていた。空襲が激化していた島の状況については「皆、夜は壕の中に寝て居ます。壕は深く、いくら爆弾を落としても平気です」と記した。

最後は、やや乱れた文字で「(自分用の馬具を)買っといて下さい。さようなら」と結んだ。直さんは「また家族と暮らしたいが、帰ることはもうない。そんな悲しみを暗示したものではないか」と推測する。

大須賀応少将が初代旅団長を務めた混成第二旅団の司令部壕跡=2019年10月、硫黄島中央部(酒井聡平撮影) 大須賀応少将が初代旅団長を務めた混成第二旅団の司令部壕跡=2019年10月、硫黄島中央部(酒井聡平撮影)

戦没者の半数に当たる1万超の遺骨が今も帰らない硫黄島。「玉砕の島」からの手紙は、語れぬ戦没者の代わりに、かすみつつある平和の尊さを伝えている。

北海道新聞の特集ページ

制作:北海道新聞 ・ Yahoo!ニュース
取材:2020年7月

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