両親と弟を見つけきれなかった:徳島大空襲「証言」

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1945/7/4

  • 来襲した軍用機の種類

    B-29 129機

  • 空襲で亡くなった人の数

    1,000人以上

  • 空襲で負傷した人の数

    およそ2,000人

片山光夫さん 1932年生まれ

空襲当時、13歳で旧制富岡中学校1年生。6人家族で、両親と一つ違いの妹、4歳の妹、0歳の弟と那賀郡赤石町(現・小松島市立江町赤石)に住んでいました。父親は船長をしていましたが、けがをして徳島駅近くの病院に入院中、大空襲前日にいとこと父親の見舞いに行きました。片山さんは、学校があったため最終列車で自宅に帰りました。病院には母親と弟、いとこが泊まっていました。4日未明、空襲警報が鳴って起き、祖母と妹2人と近くのトンネルに逃げました。トンネルから出て徳島の方を見ると、だんだん空が明るく赤く染まってきて、生まれて初めてみる光景で驚きました。そして徳島にいる家族が心配でたまらなくなって一睡もできず、翌朝おじさんと、一緒に始発列車で徳島に向かいました。鉄道は途切れていて徳島駅に向かって線路を歩きましたが、煙がくすぶっているところもたくさんあり地獄のような光景でした。真っ黒になって焼け死んだ子供をおばあさんがうちわで仰ぎながら「暑かったなあ」と声を掛けていた。子どもを抱いて池で死んでいる母親など死体も多く、このとき初めて空襲の恐ろしさを知りました。何とか病院にたどり着くと、父親がいた部屋には焼け残ったベッドしかなく、逃げ出したのだろうと一帯を探し回りましたが見つかりませんでした。それから1カ月くらいは家族が帰ってくる夢をたびたび見ました。祖母も寝ているとき、扉がかたかた動くと「よう帰ってきた」と寝言を言っていたと言います。両親と弟を失い、生活は一気に苦しくなり、食糧を手に入れるにも大変苦労をしました。

撮影日:2020年6月26日

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