ふるさとを焼き尽くした劫火〜徳島大空襲〜

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1945/7/4

  • 来襲した軍用機の種類

    B-29 129機

  • 空襲で亡くなった人の数

    1,000人以上

  • 空襲で負傷した人の数

    およそ2,000人

徳島県徳島市は、終戦の年の1945年7月4日、1万4千発もの焼夷弾を市中心部に投下されて市域の3分の2が壊滅、約1000人の市民が犠牲になりました。

さらにその以前の6月22日の徳島市秋田町空襲では、爆弾によって123人の犠牲者が出ています。

徳島での苛烈な空襲を、火焔に追われたあるいは家族を失った方々の証言でたどります。

徳島新聞とYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。

証言動画

この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。

インタビュー記事

徳島大空襲75年

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月4日未明、徳島市の約6割が焦土と化した徳島大空襲があった。大量の焼夷弾を市街地に投下するという無差別攻撃は約2時間にわたり、死者は約1000人を数える。終戦から75年。当時を知る空襲体験者は少なくなり、記憶の風化が加速している。悲劇を繰り返さないため、戦争の悲惨さや平和の尊さをどう後世に伝えていくか。空襲体験者の声など戦跡に触れ、薄れゆく徳島大空襲の記憶を心に刻む。

7月4日午前1時すぎ、太平洋のマリアナ諸島から出撃した米軍のB-29爆撃機が徳島市上空に襲来。その数は129機に上った。午前3時20分ごろまでの間、投下された焼夷弾の量は約1000トン。市街地は一夜にして焼け野原となった。

戦前の日本は木造家屋がほとんどで、攻撃対象を焼き払う焼夷弾になすすべもなかった。米軍の「作戦任務報告書」によると、爆撃の標的範囲を示す円の中心は、当時の市最大の商店街があった元町付近。住宅は次々と延焼し、神社や仏閣といった文化財、工場、学校なども炎に包まれた。

焦土と化した徳島市街地=徳島県立博物館提供 焦土と化した徳島市街地=徳島県立博物館提供

当時8歳だった東條浩士さん(83)は、徳島駅北側の徳島中央公園内で被災した。地下防空壕で就寝中、騒ぎで目が覚めると、外は至る所で火の手が上がっていた。逃げ道はなく、慌てて池の中に飛び込んだ。「恐怖と言うよりは無心。何も考えられなかった」

家族は全員無事だったものの、父親が公園内で営んでいた生活拠点の料亭は焼け落ちた。一帯には煙が立ちこめ「輝きを失い、紫色になった太陽を見た。異様な光景だった」と振り返った。

「途中で田んぼに足がはまり、靴が脱げてもはだしで走った」。橋本保子さん(85)は10歳のときに大空襲に遭った。火の手から逃れて自宅から数キロ離れた鮎喰川沿いへ。焼夷弾が頭に落ちないように木の下で何時間もうずくまり、布団をかぶって息をひそめたという。

無差別攻撃は子どもや女性、お年寄りら武器を持たない市民の命を無残にも奪った。市街地から山や川へと逃げたが、人的被害は死者約1000人のほか、負傷者約2000人、被災者約7万人。行方不明になった人も少なくない。

大空襲で両親と弟、いとこを亡くした片山光男さん(88)は13歳だった。徳島駅近くの病院で入院していた父親を見舞うため、母親ら3人は空襲時に病院で泊まっていた。朝から焼け野原をひたすら歩き、「きっとどこかに避難している」と願いながら必死に探した。

街中で焼死体やけが人を目にした。父親の親友らも加わって10日間ほど探したが、4人の姿はどこにもなかった。葬式では病院のベッドにあった灰が遺骨代わりとなった。「捜索の中止が決まった瞬間に涙が出てきた。終戦後、亡くなったことが信じられず、みんなが自宅に戻ってくる夢をよく見た」と声を振り絞った。

この日は四国の高松、高知両市、瀬戸内海を挟んだ兵庫県姫路市でも大規模な空襲があった。

街並みを奪った徳島大空襲。大量のがれきや自転車の残骸が見られる=徳島県立博物館提供 街並みを奪った徳島大空襲。大量のがれきや自転車の残骸が見られる=徳島県立博物館提供

徳島市内では他にも空襲被害が確認されており、徳島大空襲に次いで大きな被害を受けたのは、大空襲直前の1945年6月22日にあった秋田町空襲。市史によると、午前9時半、B-29爆撃機が現在の秋田町や栄町などに500キロ爆弾を5個落とし、被害は死者123人、負傷者101人、全壊家屋69戸とされている。

「気付いたときにはがれきの中。何が起きたのか理解ができなかった」。当時11歳だった横山正さん(86)は、自宅近くのなじみの家で弟と一緒にいた。その家のおばさんと話していたとき急に意識を失った。

周囲は一瞬で廃虚と化した。弟は一命を取り留めたが、頭皮が裂け、手足に木や石がめり込んでいた。母親は自宅で生き埋めになり、同じ部屋でいたおばさんを含め近所の知り合い十数人が亡くなった。

被害に遭うまで空襲の恐怖は感じたことがなかったという横山さん。「私たち兄弟も爆撃で死んでもおかしくない状況だった。生死の境目を体験したことで急に恐ろしくなり、空襲の日の夜に両親の古里へ疎開した」と語った。

徳島大空襲で焼け残った旧高原ビル=徳島市 徳島大空襲で焼け残った旧高原ビル=徳島市

徳島市内では、75年たった今も空襲の爪痕がいくつか残っている。旧高原ビル(国際東船場13ビル、東船場町1)のひび割れた窓ガラス、焼夷弾が直撃して欠けた春日神社(眉山町大滝山)の灯籠、壊れずに焼け残った城東高校(中徳島町1)の赤れんが塀...。県立博物館にも焼夷弾の実物や熱で溶けた瓶などが常設展示され、物言わぬ語り部として空襲の記憶を後世に伝えている。

制作:徳島新聞・Yahoo!ニュース
取材:2020年6月

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