狙われた工場、巻き込まれた少女たち~福島・郡山空襲~

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1945/4/12

  • 来襲した軍用機の種類

    B-29 200機

  • 空襲で亡くなった人の数

    400人以上

  • 空襲で負傷した人の数

    およそ2,500人

太平洋戦争末期、米軍は日本の生産力を潰して、日本を敗北に追い込むために激しい空襲を行いました。福島県郡山市は、軍需関連の工場が集積していてその標的になりました。

1945年4月12日の昼、200機ものB-29爆撃機が来襲し大型爆弾をこれら軍需工場群に大量に投下して破壊しました。

この空襲の犠牲者は、400人以上にのぼりました。

そうした工場には、戦場に行った男性工員に代わって福島市や遠く離れた浜通りの相馬郡などから動員された中学生や女学校生がいました。

そのうち県立白河高等女学校の生徒14人が空襲で命を奪われました。

毎年4月12日になると郡山市の如寳寺で亡くなった動員学徒(中学生や女学校生)の慰霊祭が行われています。

また100キロも離れた相馬・原町から動員された女性は、空襲で手足や首のない死体を横目に逃げ惑いました。それから66年後には福島第一原発事故で自宅を離れての避難を余儀なくされました。

福島中央テレビの取材した映像も交えて、勤労動員、爆撃、震災という過酷な出来事を、体験者の言葉で見つめます。地元・福島中央テレビの協力で取材・制作しました。

証言動画

この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。

インタビュー記事

爆風に倒され「ああ、死んだ」=日高美奈子さん

「誰か一人がめそめそね、『母ちゃん』って泣くでしょう。そうすると(寮の一部屋の)15人みんなでわあわあって泣いて。先生がびっくりして、部屋に来たってことがあったね」

福島県南相馬市に暮らす日高美奈子さん(90)。

生まれも育ちも南相馬市。しかし1944年10月、高等女学校の同級生120人とともに約100キロも離れた同県郡山市の軍需工場に勤労動員された。日中は火に強い「耐火レンガ」を製造する重労働に従事し、夜に2時間ほど勉強して就寝する日々。わずか13、4歳の少女らは、苦しさと募る寂しさから、仲間同士で夜を泣き明かしたと言う。

取材に応じる日高さん=2020年2月 取材に応じる日高さん=2020年2月

郡山は、「保土谷化学」、「日東紡績」、「三菱電機」、「中島飛行機」などの工場群があり、戦時中はいずれも軍用品を製造していた。軍需工場群が立ち並んでいたことで米軍の標的となった。 空襲があったのは45年4月12日。良く晴れた日だった。

作業で汗と油まみれになっていた日高さんが昼食前に手を洗っていた時だった。空襲警報の音に驚いて空を見上げると、キラキラと光るジュラルミン機体が複数、視界に入った。B29爆撃機の編隊が爆弾を落とし始めると、日高さんはすぐに、職場仲間と近くの防空壕に飛び込んだ。

「近くに爆弾が落ちて、壕の天井の土がバタバタって落ちるのよね。崩れるのよ。それは危ないからっていうんで、みんなで防空壕から出ようって言って、出て逃げた人はまだ良かった。防空壕に残った人は死んだ人もいるのよね。私の同級生も2人、一旦は埋まってしまったの」

爆撃を受ける日東紡績富久山工場=1945年4月 爆撃を受ける日東紡績富久山工場=1945年4月

逃げる途中、何度も爆風に倒された。

「爆弾落とされるでしょう。その爆風でバターンって倒れるのね。『ああ、死んだ』って思ったわ。死んだって思っても、『あら、何でもない』、『また逃げろ』ってみんなで、バタバタ逃げて。後から後からそれが続いたんですよ。戦場と同じだったね、こっちは戦うことはできなかったけどね」

逃げる途中に遺体も転がっていた。

「早く逃げた人が亡くなってるのよ。それが、手がなくなったり、足のない人とか横目に見ながら、おっかないとも何とも思わないで」

一緒に逃げた人々と山の中で日が暮れるまで身を隠し、夜になって工場に戻ってみると、どの建物も無残に破壊し尽くされ、焼け残った聖堂の中に何十体もの遺体が並べられていたと言う。

翌日、日高さんの父が郡山に突然姿を現した。地元で「生徒が空襲で全員犠牲になった」との情報が広がり、100キロほどの長距離を、自転車をこいだり、遺体運送用のトラックに乗せてもらったりして急行してきたのだ。

「先生とうちの父と同級生のお父さんと3人で来て、もうみんなでわあわあ泣いてね。そのとき、父が持ってきたおむすび、(同級生が)15人だって聞いていたから15個持ってきたのかね。それ、みんな泣きながら食べてね」

終戦直後、女学校の友だちらと。手作りの布製のカバンを持って写真館で撮影してもらった。左が日高さん。=日高美奈子さん提供 終戦直後、女学校の友だちらと。手作りの布製のカバンを持って写真館で撮影してもらった。左が日高さん。=日高美奈子さん提供

日高さんは、戦後40年の1985年に自らが中心になって空襲体験者の聞き取りを集めた書籍を編さんした。その後も、同窓生たちと集まっては勤労動員と空襲について語り合ってきたが、10年ほど前からそうした集まりも途絶えた。一緒に工場で働いた同期生のほとんどは、鬼籍に入った。

一方で、南相馬市は2011年の東日本大震災、そして東京電力福島第一原発事故の被害を受けた。日高さんも甥など3人の親戚を失った上に一時避難を余儀なくされた。故郷に戻った今は愛猫のミイコと‟2人暮らし"だ。

「波乱の90年でしたね。私の人生」、と日高さん。

「戦争の後は、平和でいい時代が続いたなって、震災さえなければ。戦争や空襲はつらい体験で、家族にもあまり話したことがなくって。この取材を受けるのも迷ったけど、今ここで私の言葉を残さないといけないと。あんな時代が二度と来ないように」

制作:Yahoo!ニュース
取材:2020年2月~3月

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