70年の時を超えて伝える~福岡大空襲~

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1945/6/19〜20

  • 来襲した軍用機の種類

    B-29 221機

  • 空襲で亡くなった人の数

    およそ1,000人

  • 空襲で負傷した人の数

    およそ1,000人

1945年6月19日深夜、200機を超える大型爆撃機B-29が福岡市を襲いました。およそ2時間にわたって大量の焼夷弾を投下、天神から博多を中心に市中心部が焼け野原になり、1000人もの死者・行方不明者を出しました。翌日、家族を空襲でなくした日本軍将校が捕虜になっていたB-29搭乗員の米軍将兵を復讐心から斬殺する事件が起きました。戦後、この将校はBC級戦犯として裁かれて絞首刑の判決を受けました(のち減刑)。

証言動画

この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。

インタビュー記事

炎に囲まれた大濠公園=高橋英人さん

「真っ赤に照り輝いてる夜空を、悠々と飛んでいる大きな物体にしか見えませんでした」

小学生だった高橋英人さんは、1945年6月19日の夜遅く空襲警報がなったあと、自宅の防空壕に隠れていた。座敷の下のコンクリートで作られた頑丈なものだった。

逃げ込んで難を逃れた大濠公園で証言する高橋英人さん=2018年3月 逃げ込んで難を逃れた大濠公園で証言する高橋英人さん=2018年3月

しかし、焼夷弾によって巻き起こった炎が自宅近くに迫ってきて、祖父と母、4歳の弟と1歳の妹の5人で大きな池のある大濠公園に逃げ込んだ。その時見上げた空に巨大な爆撃機の姿があったのをはっきりと覚えている。そのB-29が投下する焼夷弾で公園の周囲の住宅は焼き尽くされ、公園を炎が囲むようになった。火災から逃れようと四方から人々が公園に押し寄せごった返した。

「群衆の中で、手を握っていたはずの弟を見失いました。探し出した弟を連れて母親の背中を追うのに一生懸命でした。」しかし、幼かった高橋さんは、この命に関わるような事態にも不思議に恐怖感はなかったという。

「何か度胸が据わっとったのか、もう感情がなくなっとったのか、余りそういった(怖い)意識っちゅうのはない。」

公園の中にも焼夷弾が落ち、直撃を受けた人もいた。火傷を負った人や熱さから逃れるために池の中に飛び込む人もいたという。

「朝、明るくなった時、池を見ると浮いている人がいたし、路上には黒焦げになって、むしろをかけられている人を見ました。」

焼け野原になった福岡市内=1945年 焼け野原になった福岡市内=1945年


終戦後も、戦中のようだった福岡

高橋さんは、空襲の時不思議と米軍への憎しみの気持ちはなかった。ところが終戦後に、進駐してきた米軍への反感が強まったという。大濠公園も接収され金網で入れなくなり、さらに朝鮮戦争勃発で福岡は出撃基地となって長期にわたって米軍が大規模に駐留していたのだ。デパートや電車など、米軍専用とされ日本人が立ち入れないところも少なくなかった。福岡市内は、空襲を警戒して灯火管制も敷かれていた。

「朝鮮戦争が終わる中学3年生までの間というのは、まだ戦中という気持ちがあるんですよね。この地域というのは、朝鮮戦争が終わるまで完全に占領地として、そしてやはりアメリカの兵隊とか、いつも身近に見て育ったといいますかね。だから、今の沖縄と同じような気持ちを味わったわけで、よく子供たちには、そのことも含めて話していますけれどもね。」

共に活動を続ける、元教員の井形敏子さんと=2018年3月 共に活動を続ける、元教員の井形敏子さんと=2018年3月


伝え続ける戦争のこと

教員になった高橋さんは、学校で子供達に戦争を伝えることに力を注いだ。

「子供たちから見れば、過去の話というような受けとめ方をしていると思うんですよね。だから、やはり子供たちに言うのは、まだ、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいじいちゃん、ひいばあちゃんには経験者がおるから、今の間に聞きなさいというようなこと、それが平和を守ることにつながり、(平和を)作ると思いますね。」

教員を退職後の今も戦争にまつわる資料を収集し展示して、戦争体験を子供達に伝える語り部としての取り組みを続けてきた。戦争を伝え続けなくてはいけないという気持ちは年々強くなっていると高橋さんは話す。

制作:Yahoo!ニュース
取材:2018年3月

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