焼け野原になった古仁屋の街:奄美空襲「証言」

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1944/10/10~終戦まで

  • 来襲した軍用機の種類

    グラマンなど空母艦載機多数

  • 空襲で亡くなった人の数

    461人

  • 空襲で負傷した人の数

    299人

渡久子さん 1929年生まれ

渡さんは、奄美大島南部の古仁屋で生まれ育った。古仁屋は、奄美大島以南の島々を結ぶ拠点であり、生活物資の集積地でとてもにぎやかな町だった。渡さんは女学校のときに4000人近い戦死者を出した「富山丸」沈没事件に遭遇、勤労動員で、収容された重傷者の看護に当たった。その後、古仁屋は米軍の攻撃の標的になり、1945年3月の空襲で市街の9割を焼失、渡さんは家族と山の中の防空壕で難を逃れたが、生家と両親が経営する商店が焼け落ちた。そうした戦中の苛酷な体験と戦後の食糧不足の日々についての渡さんの証言を聞いてください。

撮影日:2017年7月6日

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