奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島など鹿児島と沖縄の間の八つの島からなる奄美群島。太平洋戦争末期、米軍が侵攻した沖縄を目前にした本土防衛の最前線となりました。奄美大島の南部には数多くの砲台を持つ「奄美大島要塞」が作り上げられ、ベニヤボートの特攻艇「震洋」の部隊がいくつも配備されていました。徳之島や喜界島には本土の航空基地から飛び立つ特攻機の中継飛行場がありました。沖永良部島には米軍上陸に備える守備隊が駐屯していたのです。
沖縄を取り巻いた連合軍の機動部隊から飛び立った艦載機は長期にわたって執拗に島々を銃爆撃しました。特に奄美大島の名瀬と南部の古仁屋のような規模の大きな町は焼け野原になり、沖永良部島や徳之島は、機銃掃射で多数の住民が犠牲になりました。
終戦後も、奄美の人々は苦難の道を歩みました。沖縄と同じように日本本土から切り離され、米軍政下に置かれました。しかも、軍事的価値がないことから物資や資金が沖縄に集中し、奄美は取り残された状態になったのです。人々は食糧不足で飢餓の寸前にまで追い込まれ、拿捕される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する「密航」でなんとか生き抜いたのです。
奄美群島が日本に復帰したのは、1953年12月25日のことでした。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
インタビュー記事
最前線の島々、そして米軍政下の困窮の日々〜奄美群島空襲〜
うっそうとした森から聞こえるカワセミの鳴き声。珊瑚礁の海と真っ白な砂浜。月夜に響く三線とシマ唄。奄美大島から与論島まで八つの島々からなる奄美群島は、美しい海と豊かな自然、独自の文化に恵まれている。しかし、太平洋末期には、沖縄に侵攻した米軍と向き合う本土防衛の最前線となり、全島が長期にわたって激しい空襲を受けた。
同級生の命を奪った機銃掃射=沖永良部島 先山道澄さん
「米軍機の機銃の音は甲高いんです、パパパーって」
沖縄本島から60キロの沖永良部島・和泊町に暮らす先山道澄さん(当時国民学生6年生)は、学校に行こうと家を出た時にその音を聞いた。1945年3月1日、和泊の港を出た木造船が米軍機の攻撃を受けたのだ。船は座礁し、多くの死者を出した。その中に同級生の平忠彦さんがいた。中学校に進学するために鹿児島に向かおうとしていたのだった。
「私が何も話さなかったら、もうこのことを誰も話してくれる人はいないかもしれない。足が悪い時は車で、普段は散歩で来て頭を下げる。月に一回必ず、心の中で話をするんですね」と話しながら、先山さんは船が座礁した海を見下ろす高台の建立された慰霊塔に手を合わせた。
12歳で乗り込んだ密航船=奄美大島 岡登美江さん
奄美群島の拠点は、名瀬の町。当時本土から奄美にやってくる様々な物資はまず名瀬港に入った。奄美の人々にとっては名瀬の町は人やモノが集まる大切な場所だった。それだけに米軍の攻撃の標的となった。特に4月20日の空襲は熾烈を極め、名瀬は焼け野原と化した。鹿児島市に疎開していて鹿児島空襲で大やけどを負った岡登美江さんは、島に戻った時その変わりように息を飲んだ。
「本当に何もないんです。もちろん我が家も焼けて、ない。ただ、一部のコンクリの塀などが残っていました」
名瀬に戻った岡さんたちの家族の生活は困窮を極めた。沖縄同様に日本から切り離され米軍政下に置かれた奄美群島だが、軍事的価値がないとされ、物資や資金は沖縄に集中した。いわば奄美は見放されたのだ。モノ不足に食糧不足。しかも、自由に本土に行くこともできなくなっていた。その時、多くの奄美の人々が頼ったのが密航船だ。本土に持っていけば10倍の値が付く黒砂糖を持ち出して食糧に交換しようとしたのだ。
終戦から4年後、12歳の岡さんは小さな船で「国境」の島、北緯30度線直下の口之島へ向かった。母親が急に行けなくなった代わりだった。見つかれば拿捕されるので、昼は島かげに隠れて島伝いに4日間もの船旅だった。
「船に弱いので、吐くものがなくなって血を吐いたんです」
妹たちに食べさせたいとお菓子や食料を持って船で戻った岡さん。母親が息もできないほど強く抱きしめて口にしたのは、「このことは死ぬまで話してはダメよ」という言葉だった。
島々を挙げての復帰運動が実を結んで、奄美の本土復帰が実現したのは、1953年12月25日のことだった。しかし、沖縄本島から以南の島々が復帰を実現するのはそれからさらに18年余り後のことだった。
取材日:2017年7月、取材協力:南海日日新聞社、伊地知裕仁さんそのほかの空襲記事
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